”(ひとしずく・②主の祝福のうちに留まるには)最近あったこと” | sarah‐mercy

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イエスの愛と共に
猫にも花にも愛は注がれている

 

(転載)

右差しパート①からの続き

 

~友人からのメール~

 

「主の祝福のうちに留まるには」

               (2019年2月20日の聖書クラスより パート2)

 

 思考の中の戦い

 

何か思いがけないことが起こった時、私たちはそれにどう対処しようか、

そればかりを考えます。

しかし主は、その災いや問題を通して、主の存在に気づいてほしい、近づいていてほしい、

逃れ場として御自分につながっていて欲しい、と私たちに伝えているのです。

そして、私たちが何か良くない思いを抱えている時、

主は

「これはあなたに持って欲しくない思いなんだよ、

  そういう思いをいつまで持ち続けるの?

  それはあなたの歩みに良くないのだよ」

と教えたいのかもしれません。

 

しかし、「これは、私の性格です。

 私は、こういう主義主張でやってきたのです。

 私の心の中の思いなんて、構わないではないですか?」

と反抗したくなるのが、人間の性質です。

絶えず人と比べたり、人を否定的、批判的に見たり、人を卑下して見たり、

人にされたことを許さず、

あるいは自分自身に落胆したり、不平を言ったり、絶えずそれを繰り返している。

神様は心を見られる方ですから、神様はこうした心の状態をも見ているわけです。

 

ところが私たちは、神様の目の前で、神様のむかつくような、

これらのことを平然とでずーっとやり続けているのです。

そして、何かが起こると、”神様、あなたはどうしてこんなことを私にするのですか?”

とつぶやくのです。

”神様、あなたはどうして私ばかりをこんなにいじめるのですか?”と。

 

 不平を言う者の行く末

 

主はイスラエルの民を約束の地に導こうとしていました。

しかし、約束の地に入る前に多くのイスラエルの民は皆死んでしまいました。

どうしてでしょう?

それは、彼らが主の善意を疑い、不平ばかり言っていたためです。

 

 さて、民は災難に会っている人のように、主の耳につぶやいた。

 主はこれを聞いて怒りを発せられ、主の火が彼らのうちに燃えあがって、

  宿営の端を焼いた。                                                                              (民数記11章1節)

 

 また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。

 つぶやいた者は、「死の使」に滅ぼされた。

                           (第一コリント10章10節)

 

 

絶えず、不平を言い続けているなら神様は祝福できません。

罪を神様は祝福できません。

子供が、不平を言い続けている時、親は子供にご褒美をあげることはできません。

子供に良いものをあげたいと思っても、

だだをこねて、絶えず、不平を言っているのなら、

ご褒美をあげるにはタイミングが悪いですね。

神様は祝福を注ぎたいのに、私たちがいつまでも不平を言い続け、

苦々しい思いに捕らわれているなら、神様も困ってしまうのではないですか。

祝福をあげたいんだけれど、あげられない。

誰よりも神様が、悲しみ残念がっておられるのではないでしょうか。

 

詩篇78篇17節から読んで見ましょう。

 

 ところが、彼らは、なお神に向かって罪を重ね、荒野でいと高きものに背き、

 己が欲のために食物を求めて、その心のうちに神を試みた。

 また彼らは神に逆らって言った、

 「見よ、神が岩を打たれると、水はほとばしりいで、流れがあふれた。

 神はまたパンを与えることができるだろうか。

 民のために肉を備えることができるだろうか。」と。

 

 それゆえ、主は聞いて憤られた。

 火はヤコブに向かって燃え上がり、怒りはイスラエルに向かって立ち上った。

 これは彼らが神を信ぜず、その救いの力を信用しなかったからである。

 

 しかし、神は、上なる大空に命じて、天の戸を開き、

 彼らの上にマナを降らせて食べさせ、天の穀物を彼らに与えられた。

 人は天使のパンを食べた。

 神は、彼らに食物を送って飽き足らせられた。

 神は天に東風を吹かせ、御力を持って南風を導かれた。

 神は彼らの上に肉をチリのように降らせ、翼ある鳥を海の砂のように降らせて、

 その宿営の中、その住まいの周りに落とされた。

 

 神が彼らにその望んだものを与えられたからである。

 こうして彼らは食べて、飽き足りることができた。

   神が彼らのその望んだものを与えられたからである。

 

 ところが彼らがまだその欲を離れず、食物がなお口の中にあるうちに、

 神の怒りが彼らに向かって立ち上り、彼らのうちのもっとも強いものを殺し、

 イスラエルのうちのえり抜きのものを打ち殺された。

 全てこれらのことがあったにもかかわらず、彼はなお罪を犯し、

   そのくすしき御業を信じなかった。

 

 それゆえ神は彼らの日を息のように消えさせ、

 彼らの年を恐れを持って過ごさせられた。

 神が彼らを殺された時、彼らは神をたずね、悔いて神を熱心に求めた。

 こうして彼らは、神は、彼らの岩、いと高き神は、

   彼らはあがない主であることを思い出した。                                                                       

                    (詩篇78篇17~35節)

 

 

イスラエルの民は、神を試み、逆らい、不平を言い、神を認めませんでした。

色々と神様に良くしてもらっているのに神様を認めない。

目が塞がれている状態です。

そういう人々に対して、神様は求めるものを与えるのですが、

それでもすぐにまた民の不平が始まり、続くわけです。

これは神を愛し、恐れる状態ではありません。

 

 神様の思い

 

神様はただの法則とか、思想ではありません。

神様は生きていて全部、聞いています。

神様は私たちを「神に似せて造られた」と、あります。

 

つまり、神は耳があり口があり、見て感じる方なのです。

私たちのように肉体を持っている方ではないですが、

神は心を見、心の声を聞いておられます。

だから、私たちは心の中でつぶやいていることや、思いに気をつける必要があります。

ただ悔い改めて、神を求めた時に、

神は、それを許して、また新しく始めさせてくださいます。

滅ぼすことがゴールではないからです。

 

神様は絶えず、私たちが主と一つになること、主と交わること、

彼は私を愛して離れないゆえに、

私は彼を守ろうという祝福に私たちを預からせたいわけです。

 

人間関係においても、たくさん愛を与えているのに、良い反応が返ってこないというのは、

なかなか難しい状態です。

神様が一方的に与えに与え、忍耐して、人々の不平にもかかわらず良くしていても、

一向に改善が見られない、そうした場合、どうしたら、わかってもらえるだろう?

と思われるでしょう。

 

人間だったら、これは少し与えることをやめた方がいいのかもしれないと思うかもしれません。

どうしたら、心が通じるのだろう。

どうしたら、この愛をわかってもらえるのだろうと考えることでしょう。

 

神と私たちの間には、罪ゆえの断絶があります。

人は罪があるのに、その罪に気がつかないばかりか、

その罪を正当化してしまう場合もあります。

神様はそうした人の罪によって遠ざかってしまった状態を解決するために

行動を起こされました。

 

神様の方から、橋を築いて私たちのところに来て下さり、

「あなたの全部の罪を帳消しにします」、と言って、

イエス様が私たちの罪の身代わりになって死んでくださいました。

神様ご自身が私たちの罪を背負い、帳消しにしてくださったのです。

 

でもそれで終わりではなく、

本当は、私のあなたに対する思いはこうなんだよと示してくださったのです。

 

第一ヨハネの1章1節から読んでみましょう。

 

 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、

 目で見たもの、よく見て手で触ったもの、

 即ちいのちの言について。

 このいのちが現れたので、この永遠の命を私たちは見て、

 その証をし、かつ、あなた方に告げ知らせるのである。

 

 この永遠の命は、父と共にいましたが、今や私たちに現れたものである。

 即ち、私たちが、見たもの、聞いたものを、あなた方にも告げ知らせる。

 それはあなた方も私たちの交わりに預かるようになるためである。

 私たちの交わりとは、父並びに御子イエスキリストとの交わりのことである。

 これを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためである。                                                                 

                             (第一ヨハネ1章1~4節)

 

 

神は私たちと「交わりたい」と思っておられるのです。

ただ罪を赦して終わりではなく、交わりたいのです。

神様は私たちの中に住まわれて、絶えず、交わりを続けたい。

それは私たちが喜びに満ち溢れるためです。

 

イエス様はそれを可能にしてくださったのです。

イエス・キリストが流してくださった血、その犠牲、生贄によって、

神様のみ座にはばかることなく行けるようにしてくださった。

すごいですね。

 

主はその愛についてありがたく思い、

それだけのことを私にしてくださった主をもっと愛し、

離れたくないという反応をする人を求め探しておられるのです。

 

”私はあなたの掟をもっと学びます。

 あなたの愛の言葉をもっと聞いて、信仰を育みたいです。”

という気持ちがあるなら、

「彼はわたしを愛して離れない故に、わたしは彼を助けよう」

という約束に入っていくことができます。

 

なぜなら、その愛を私たちは示していただいているから。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださって、

御子イエスが命を捨ててくださった。

そこに愛があるわけです。

 

ですから、私たちがその愛を自分によくよく言い聞かせ、思い出し、

それにそぐわない思いを捨てていく、

その課題を一人ひとりが真剣に取り組まなくてはいけません。

 

右差しパート③に続く

 

(転載おわり)

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私達が主の御声を聞くことにおいても成長できますように。

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昨日の続きのリブログします

5年前の記事に書かれている”最近あったこと”を読んで

実はこのお隣のトラブルは今も改善されていないのです

おばあさんは年々、愚痴が駄々洩れている状態で、

お父さんと息子さんの関係も悪くなっている様子ですし、

お母さんは何も言えず、押し黙っているばかりです

 

ただ、一つ学んだことは

不平ばかり言っている家族がどうなるか見ることが出来ました

それと、

自分を苛々させるものに、執着しないということです

これは冷たいと感じるかもしれませんが

自分の思考まで汚されるものから、離れる必要があります

(勿論、改善のために祈ります)

 

雨の日に、泥が飛び散るところにわざわざ立って汚れるよりも

その道を通らないか、傘を差すかした方がいいでしょう

同じ時間をどう過ごすかは、自分の心次第の時もありますね

 

どうぞ、花をみて「美しい」と感じられる日でありますように

お祈りしていますお願い

 

 

 

 

 

 

 

 

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(2020年2月ももちゃん)

今日もありがとう~ラブラブ