ロバート・D・ルギンビル博士著(http://ichthys.com )
罪の問題:
私たちの心の真の変化のプロセスでさえ、
決して「罪のない完全さ」を生み出すことはないということに、
私たちはすぐに気づく必要があります。
私たちの主は人生のあらゆる誘惑に誤りなく立ち向かわれましたが(ヘブル4章15節)、
私たちは、必然的にその足元にも及びません(ローマ3章23節)。
それは、私たちの肉体そのものが堕落している、
つまり罪によって「内在」されているからです
ですから、自分のために罪を「再定義」するという間違いを犯してはなりません。
罪とは、私たちが個人的に不快に思うことだけではなく、
むしろ神が禁じておられるすべてのことなのです。
私たちは、神の禁止リストに付け加えることも、そこから差し引くこともできません。
神にとって、すべての罪は神の御心に背くことだからです。
アダムとエバは禁断の実を食べたために楽園から追放されましたが、
その行為自体は特に不道徳とは思えませんが、
神の権威を明らかに、故意に拒否した行為でした(創世記2章16-17節)。
神によって禁止された行為は、
たとえ私たちにはひどく間違っているように思えなくても、
私たちに衝撃を与え、個人的に怒らせる行為と同じように罪深いのです。
罪なき完璧さという神話:
「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者となるべきである」
(これが私たちが保つべき基準です: 第一ペテロ1章15-16節)、
霊的に成長するにつれて向上することが期待されている
(これが私たちが目指すべき目標です: ヘブル5章11-14節)
にもかかわらず、
この腐敗した肉体と腐敗した世界では、絶対的な罪の無い状態は達成不可能です。
「罪のない完全さ」は誤った教義であり、
それが生み出す大きな心理的重圧のために危険なものなのです。
罪の現実性と必然性から、このような見解の信奉者はしばしば、
ある種の罪が本当に罪であることを否定したり、
ある種の罪を(犯すことはあっても)犯していることを否定したりします。
しかし、罪の範囲は非常に広く、陰湿であるため、
人間の心の動機と表現そのものを包含しています。
(エレミヤ17章9節; ガラテヤ5章19-21節; エペソ4章29-31節; ピリピ2章3-8節)
自分自身の義を証明するために、どのような完全性の基準を選んでも、
私たちは必ず失敗します。
十戒は、神によって定められた人間の行いの最も具体的な基準であり、
私たちの心の欲望を、偶像礼拝や殺人と同じように、
全く罪深いものだと宣告することで締めくくられています。
(「欲してはならない」:出エジプト記20章17節, ローマ7章7-12節参照)
そして実際、パウロは、神が律法をお与えになった目的は、
私たちがみな罪深い者であり、
それゆえに罪の問題に対する神の解決策である
イエス・キリストを必要としていることを、
疑いなく全人類に証明するためであったと教えています。
パウロの時代の「宗教的」な人々の多くは、
自分の義を証明する基準としてモーセの律法を用いようとしましたが、
そうすることによって自分自身を罪に定めることにしかなりませんでした。
(ローマ3章20節)
真の義とは、御子を信じるときに神から与えられるものだけです。
(ローマ4章5節)
悪魔に支配された敵対的な世界でイエスに従う者として、
私たちは自分の個人的な欠点、誤り、罪について幻想を抱いている余裕はありません。
私たちは、それらをありのままに認識し、
それらに対処するために神が与えてくださった恵みを
直ちに活用しなければなりません。
罪からの清め:
すなわち、キリストの御業によって赦され、聖なるものとされたのです。
しかし、「キリストにあって」(第一コリント6章11節)私たちは清く純粋ですが、
悪魔の世を歩く私たちの足には、まだ汚れてしまう可能性があります。
神は私たちに「聖なる民」という地位を与えてくださいましたが、
私たちはまだ不完全であり、罪を犯す可能性があります。
ですから、私たちはこの地上に滞在する限り、
常に個人的な罪を犯しやすいという事実に注意し、
「容易にからみつく罪」(ヘブル12章1節)に
巻き込まれたときにはいつでも、
それを告白する用意ができていなければなりません。
これは、イエスが最後の晩餐の前に弟子たちの足を洗われたときに言われたことです
(ヨハネ13章1-17節)。
ペテロは、イエスが他の弟子たちとともに自分の足を洗ってくださるのを嫌がりました。
しかし、イエスが、足を洗っていただかなければ、
ペテロはイエスと「なんの係りもなくなる」と言われたとき、
ペテロは、主が自分の体も洗ってくださるよう求めました。
イエスは、
「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。
全身がきれいなのだから」(ヨハネ13章10節)
と言われました。
主は私たちに、アダム以来全人類を責め苦に陥れてきた罪の束縛からの解放が
ただ一つ必要であること、
そしてこの解放、すなわち「贖い」は、主が私たちの身代わりとなって死なれ、
私たちが主を信じる信仰によって与えられるものであることを語られたのです。
この「贖い」こそが、罪からの「洗われること」、
すなわち清めであり、それはすでに成し遂げられたことであり、
二度と繰り返す必要はありません。
しかし、私たちは信仰者として個人的な罪を犯し続けることがあり、
そのようなときには「足を洗う」、
つまり、神に罪を告白するときにもたらされる赦しと回復が必要です。
私たちは一度だけ罪から洗われる必要があります。<キリストによる罪の贖いによる洗い>
罪を犯すたびに、罪を清める必要があるのです。<告白は罪を犯すたびにする>
--15-Cに続く
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あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。
しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、
またわたしたちの神の霊によって、
洗われ、きよめられ、義とされたのである。
(第一コリント6:11)
感謝します
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昨日の午後から雪が降り始め、庭も綿帽子になりました
立春を迎えての雪なので、春の土を潤してくれることでしょう
しかし、都内は交通網が乱れるので、皆さん大変ですね
運転も十分注意して、足元も気をつけて
ケガのないように守られますように
お祈りしています
今日は姉の誕生日です
おめでとう~
いつも色々送ってくれてありがとう
感謝しています
そう言えば・・・
生前母が、姉がお腹にいて、産み月になっても雪かきしていたと言う話を
思いだしました
長い冬のあとで、咲いてくれる花を見ると
本当に喜びを感じると言っていました
雪国の生活は本当に忍耐がいるけど
みんな逞しいと思います
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(2017年2月ももちゃん)
今日もありがとう~