(ひとしずく・イチジクの葉、スケープゴート~贖罪の山羊~) | sarah‐mercy

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イエスの愛と共に
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~友人からのメール~

 

イチジクの葉、スケープゴート(贖罪の山羊)

 

 

最近「日々、聖霊に満たされて」(AWトーザー著)の中から

次のような言葉を読みました。

 

「真の宗教は道徳的行動に導く。

 …唯一の真のキリスト者は、活動しているキリスト者である。」

 

これは、ヤコブの手紙の中で述べられている次の御言葉と同じ意味だと思います。

 

 信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。

 しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある」

 と言う者があろう。

 それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。

 そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。

 あなたは、神はただひとりであると信じているのか。

 それは結構である。

 悪霊どもでさえ、信じておののいている。

 ああ、愚かな人よ。

 行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。

                         (ヤコブ2章17~20節)

 

 ひと言で言えば、「行いのない信仰は死んだものである」ということです。

しかしまた、いくら活発に行動していても、それが偽善であったり、

自分の信仰を立派に見せるための行為であるなら、

それは「罪」の極みであり、

私たちはこれをカインの罪として聖書から学んでいると思います。

 

 神への捧げものとして、カインは自分の作った農作物を、

アベルは羊を捧げ、神はアベルの捧げものだけを受け入れました。

一生懸命、汗水流して労働をしていたカインは、

何もしていないように見える羊飼いアベルに苛立ち、その屈辱に耐えられませんでした。

そして、その怒りによって弟であるアベルを殺してしまうのです。

 

 この世界で最初の殺人をしたのは、カインです。

この捧げものの羊については、私たちのいけにえとなって死んで下さった

イエス様の予型であるわけで、おそらく羊を捧げるようにと

神様から定められていたのだと思います。

 

しかし、カインは自分が良いと思うものを勝手に捧げたのです。

神の言いつけを守るのを大切なこととせず、

これだけ一生懸命やっているぞ!と自分を印象付けようとしているのです。

 

 もし、自分(たち)の捧げものが、神に受け入れられないのなら、

私たちは立ち止まるべきです。

そして、どうしようもない自分の有りのままの状態を神にさらけ出して、

神の憐みと救いを待ち望むべきなのです。

(創世記4章1~16節)(ヘブル11章4節)

しかし、カインはそうせずに、自分の捧げものが認められなかった腹いせに

弟アベルを殺してしまったのです。

 

最近の

「ひとしずく・サタンの反乱 艱難期への序章 第三部」「パート34」

にもありましたが、

人は自分の醜い罪や弱さを覆い隠そうと、イチジクの葉を探して忙しく行動するのです。

「イチジクの葉」で覆い隠そうとする行為は、

アダムとエバに限ったことではないのです。

カインも同じであり、また私たちにとっても言えることだと思います。

 

ところで、最近ネットなどで「スケープゴーティング」という言葉が使われます。

これは贖罪の山羊、身代わりの山羊(スケープゴート)からきたもので、

聖書にその話が記されています。

 

 そしてアロンは、その生きているやぎの頭に両手をおき、

 イスラエルの人々のもろもろの悪と、もろもろのとが、

 すなわち、彼らのもろもろの罪をその上に告白して、これをやぎの頭にのせ、

 定めておいた人の手によって、これを荒野に送らなければならない。

   こうしてやぎは彼らのもろもろの悪をになって、人里離れた地に行くであろう。

  すなわち、そのやぎを荒野に送らなければならない。

                          (レビ記 16章21、22節)

 

 ユダヤ人は年に一度、これを行っていました。

イスラエルの民の全ての悪と罪を背負って、

つまり彼らの身代わりとなって荒野に送り出されたやぎは、荒野で死ぬことになります。

これもイエス様が人々のあがないのために

全人類の罪を背負って死んで下さったことの予型です。

この話が元になって、社会で使われている「スケープゴート」について、

以下、ウィキピディアからです:

 

「政治の一つの手法として使われる意味合いとしては、

 方針や主義に不利益とされる小規模な集団や社会的に

 弱い立場の人間をスケープゴートとして排除するなどして、

 社会的な支持や統合を目的とするといったものもある。

 

 例えば、テュアナのアポロニオスは、疫病に襲われたエフェソスで、

 不安に怯える全市民を劇場に集めた上で一人の乞食を指差し

「彼こそ疫病のダイモーンである」と宣言した。

 乞食は埋もれるほどの石打ちによって死亡し、市民は気分爽快になったという。

 第二次世界大戦中のナチスが行ったホロコースト(この言葉も聖書からきている)は、

 ユダヤ人をスケープゴートの対象としたものであることが挙げられる。」

                          (ウィキからの引用終わり)

 

 

真実を隠すため、あるいは真実から目を逸らすために、

他のものに責任転嫁して、それを激しく責めるというようなことは、

マスコミが大衆心理操作のためによく使う方法でもあります。

今、海外で起っている戦争や食糧危機なども、

真の原因がスケープゴートに転嫁されて報道されている可能性もありますし、

また、ワクチンや政界での非常に深刻な問題の原因も、

他のことにすり替えられているのかもしれません。

これは注意しなければならないことです。

 

人々は、それによって、問題の核心を見えなくされ、

代わって他の的外れな罪を背負わされたスケープゴートが苦しむのを見て、

あるいは罰を受けるのを見て、問題に対して何かの対処がされていることで、

いくらか安堵するのです。

しかし、これはただ、本当の問題の元凶を隠蔽しているにすぎません。

 

こうしたスケープゴート心理についての動画がありました。

「スケープゴートをする際の醜い深層心理」

ナレーションの一部からの抜粋を抜粋します。

https://www.youtube.com/watch?v=cLa0zqShCcw (英語)

 

「...スケープゴートとは、ある特定の目的を達成するために利用される誰か、

 あるいは何らかの集団のことです。

 人は、自分が認めたくない根本的な真実があるときに、

 スケープゴートを作るのです。

 人や社会は、そのスケープゴートにされた人たちに責任を転嫁し、

  追い出したり排除したりすることができるのです。

 そして、自分たちの問題の原因がすべてなくなったと想像するのです。

 人々がそれをするのは、精神的な浄化や安堵感、また癒しをもたらすからです。

 スケープゴーティングが気持ちいいのは、自分を苦しみから守る方法だからです...」

                 ―「スケープゴートをする際の醜い深層心理」よりー

 

 

スケープゴーティングは、「イチジクの葉」が失敗した際の次の手段だと思います。

どうしても自分の罪が暴露されることから逃れることができないとわかると、

それは他の人のせいだ、と責任を転嫁するのです。

それは罪を犯した後にアダムがエバに責任転嫁したのと同じことです。

 

 自分(たち)の問題を他の人のせいにし、

人の関心をスケープゴートに向けさせて、自分の実態を目立たないように、

あるいは人の意識から遠ざけ、忘れさせようとするのです。

アダムとエバから始まったこの罪深い性質は、

この世界全体を支配しようと企む者たちや政界やマスコミに限らず、

私たち一人ひとりの内にあるのです。

 

 しかし、私たちには問題の解決があります。

真の解決は、その問題の根本から始めなければいけません。

それは、罪という問題の解決です。

それを隠したり、目をそらしたりする必要はありません。

神様は、その問題の答えを私たちにすでに提供して下さっています。

それは十字架で支払われたイエス・キリストの犠牲です。

 

 

 彼(イエス)は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。

 ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。

                                 (第一ヨハネ2章2節)

 

 イエス様は、私たちの罪の責任転嫁を受けて下さいました

彼は自ら進んで私たちの全ての罪を背負って下さったのです。

私たちは、他の人をスケープゴートにする必要がありません。

私たちが罪を悔いて主のもとに行く時、主はその罪を赦して、

両手を広げて私たちを迎え入れて下さいます。

 

 

 彼はわれわれのとがのために傷つけられ、

 われわれの不義のために砕かれたのだ

 彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、

  その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。

                          (イザヤ書 53章5節)

 

 

   私たちが無意識のうちにも、イチジクの葉を探して、

それを繕おうとしたり、スケープゴートを探そうとしたり、

あるいは他の人をスケープゴートにして非難している時、

果たしてそれが真の信仰からきているのかどうか、

主を求めて真実に気づくことができますように。

 

 

 あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、

 自分を反省し、自分を吟味するがよい。

 それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、

 悟らないのか。

 もし悟らなければ、あなたがたは、にせものとして見捨てられる。

                              (第二コリント 13章5節)

 

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責任転嫁というのは、自分の罪をごまかすため、問題を隠すために使われるのですが

今日の「ひとしずく」を読んで、思い出したことがあります

まだ低学年だった次男が、初めて誘われた友達の家に遊びに行ったときの事です

その友達とは普段はあまり遊ばない子だったのです(外遊びの好きな次男でした)

帰ってきて「楽しかった?」と聞くと

「まぁまぁ、でもおやつを一杯出してくれたよ」と、喜んでいました

 

次の日、その友達のおばあちゃんから電話がありました

「家では、買い食いはさせていませんし、おやつも手作りです

それなのに、うちの子におやつを買いに行かせるなんて・・・

うちでは厳しく育てているので、もうそのようなことさせないでくださいね!」

と、

次男はまだ家に帰っていなかったので「子供の口から話を聞いてみたいので…」と言うと

おばあちゃんは、自分の孫が嘘をついているわけがないと憤慨!

 

次男が帰ってきてから、それとなく話を聞きだすと、「かわいそうだ」と言うのです

意外な返事に、どうしてか聞くと、その子のお父さんはかなり厳しく、

結局その子は誰とも遊べなくなっていたようで、

友達を誘うためにあの手この手を使うようになったようです

でも、自分の都合が悪くなると、怒られるのが嫌なので

嘘ばかりお父さんに言っていたそうです

「どうする?お母さんが電話かけてみる?」と聞くと、次男は

「その子が自分で正直にお父さんに話すように言ってみる」と言うので

任せることにしました

数日後、その子は正直にお父さんに話したことで、ぼこぼこに殴られ顔を腫らしてきたそうです

せっかく正直に話したのに、お父さんは自分の問題を隠すため、プライドの為に

息子を殴ったのです

殴ったことで問題は解消したでしょうか、そうではないと思います

お父さんに従順だった子供は、やがてもっと深刻な問題を持つようになりました

 

責任転嫁というのは誰にでもあると思います

自分がこうなったのは、誰々のせいだ…あの環境のせいだ・・・

あるいは、自分の罪を隠すために誰々のせいにしておこう・・・等々

私にもあります そしてそれが人間です

そんな罪をもっている私たちの為に、イエス様が肩代わりして下さったので

もう罪を隠そうとしたり、問題を見ないようにごまかしたりする必要がないということを

ただ、受け入れる必要があるのだと思います

またそうできることは、感謝です

 

しかし、サタンはなかなかそうさせないのですね

本当に注意しなければならないことです

イチジクの葉で隠しても、罪は消えないのですから

 

こういうわけで、わたしたちは、

このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、

いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、

わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。

 

信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。

彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、

恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。

(へブル12:1-2)

 

感謝します

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ヒガンバナ風に吹かれ雨に打たれ

今日もありがとう~ラブラブ