(ひとしずく・②変化を求めて「みこころでしたら...」)祈り | sarah‐mercy

sarah‐mercy

イエスの愛と共に
猫にも花にも愛は注がれている

右差しパート①からの続き

~友人からのメール~

 

変化を求めて「みこころでしたら...」 パート2

 

イスラエルの民がエジプトでの奴隷状態から解放されることは、神の御心にかなったことでした。

神はイスラエルのエジプトの王パロの下での苦役のため、叫び求める声を聞かれ、

憐みに満ちた神がイスラエルをその苦境から救い出すことは神のみこころでした。

 

主はかつて、アブラハムに自分の子孫となる民について次のように語られていました。

 

 時に主はアブラムに言われた、

 「あなたはよく心にとめておきなさい。

 あなたの子孫は他の国に旅びととなって、その人々に仕え、

 その人々は彼らを四百年の間、悩ますでしょう。

  しかし、わたしは彼らが仕えたその国民をさばきます。

 その後かれらは多くの財産を携えて出て来るでしょう…」。

                                      (創世記 15章13-14節)

 

ここにある「他の国」というのはエジプトのことです。

そしてそこから「出て来る」ことは四百年も前からアブラハムに告げられていたことでした。

はじめ、エジプトの王パロはヤコブの十一番目の息子のヨセフのゆえに、

ヤコブはじめ彼の全家族に全世界の飢饉の時に厚遇を与え、

エジプトの最も肥えた地に住まわせました。

しかし、その時の王は亡くなり、エジプト人らのイスラエルの民に対する態度は変わりました。

 

 ...ヨセフのことを知らない新しい王が、エジプトに起こった。(出エジプト1章8節)

 

また別のエジプトの王もイスラエルの人々に対して厳しく当たりました。

 

 ...イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。

 重い労働による彼らの叫びは神に届いた。

 神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起された。

 神はイスラエルの子らをご覧になった。神は彼らをみこころに留められた。

                                       (新改訳Ⅳ 出エジプト記2章23-25節)

 

 

イスラエルの民の叫びは、神に聴き届けられました。

それは神の御心でした。

神はモーセを立てて、このイスラエルの民を奴隷状態から救い出されたのです。

しかし、イスラエルの民は、どれだけ神よりの救出を感謝していたでしょうか?

どれだけエジプトのパロの王による奴隷状態からの解放を感謝していたでしょうか?

 

紅海が分れて乾いた海の底を歩いて渡る前にも、

エジプトのエジプトの軍勢に追いつかれそうになると、モーセに対して

「なぜわたしたちをエジプトから導き出したのですか」と不平をならします(出エジプト14章11節)。

また紅海の時の奇跡をすぐに忘れて、荒野で幾度もつぶやきます。

 

 その荒野でイスラエルの人々の全会衆は、モーセとアロンにつぶやいた。 

 イスラエルの人々は彼らに言った、

 「われわれはエジプトの地で、肉のなべのかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていた時に、

 主の手にかかって死んでいたら良かった。

 あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出して、全会衆を餓死させようとしている」。

                                                  (出エジプト 16章2-3節)

 

せっかくエジプトの奴隷状態から解放されたけれども、

何かが起こるたびにイスラエルの人達は、

不信を抱き、モーセと神に対して不平を言いつぶやきます。

彼らは、神に近く従って自由に生きるよりも、

人の奴隷として生きて轍(わだち)の中に生きる方を好んだのでした。

神はその心をご覧になり、その求めるものを与えられます。

 

 わたしの栄光と、わたしがエジプトと荒野で行ったしるしを見ながら、

 このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞きしたがわなかった人々はひとりも、

  わたしがかつて彼らの先祖たちに与えると誓った地を見ないであろう。

 またわたしを侮った人々も、それを見ないであろう。

                                 (民数記 14章22-23節)

 

はたしてその通りになりました。

不平をつぶやいた世代は、神を信じて従ったヨシュアとカレブ以外は全員荒野で死に絶えました。

しかし、若い世代は親の二心の状態とその結末を見て、神に従うことを学んだのです。

この教訓は現代にも当てはまります。

自由には代価が伴います。

自由に生きることを望むなら、犠牲を払ってでも「自由」を大切にする必要があります。 

 

以下は、当時、まだ奴隷制度があったギリシャの教会の人達に言ったパウロの言葉です。 

 

 各自は、召されたままの状態にとどまっているべきである。

 召されたとき奴隷であっても、それを気にしないがよい。

 しかし、もし自由の身になりうるなら、むしろ自由になりなさい。

 主にあって召された奴隷は、主によって自由人とされた者であり、

 また、召された自由人はキリストの奴隷なのである。

 あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。

 人の奴隷となってはいけない。

 兄弟たちよ。各自は、その召されたままの状態で、神のみまえにいるべきである。 

                                       (コリント人への手紙第一 7章20-24節)

 

これは身分や立場を気にするな、ということです。

神は心を見られる。

そしてもしあなたが神以外の者の気持ちを損ねてしまったかどうかと、気になっているなら、

あなたは人の奴隷です。

あなたが召されている場所や地位や、なんであれ、気にすることはありません。

しかし、心と霊が神ならぬものに捉われているなら、

その者の奴隷です。

私達は誰の下で働くように召されていたとしても、

神に仕えるゆえにその場所を受け入れ誠意をもって働くのです。

 

しかし、もし、実際的にも自由になれるのなら、そうなりなさい、

とパウロは言っているのです。

しかし、現代のどれだけの人が自由に生きることを価値あるものとして見なしているだろうか、

と思います。

現代は自由に選択ができるのに、その権利を自分で考えたり、

責任を負うということから逃れるために、人の奴隷となって轍に留まりたがる風潮が

広まっていると思います。

自分の意見を持たず、主張せず、明らかにせず、

「見ざる、聞かざる、言わざる」は、賢い処世術だと信じているのです。

 

真理と自由には相互関係があります。

自由に生きるには真実に生きる必要があります。

そしてそれには代価がかかるのです。

自分で何が真理であるか見極めてそれに生きるために、

(私達クリスチャンにとっては、聖書の真理に立つために、)

世からさげすまれることも気にしない程度の

犠牲を甘んじて受けるくらいの者となる必要があると思うのです。

 

『主よ、みこころでしたら... 』束縛の奴隷状態から解放して下さい」

と私達は祈る必要があります。

私達はいつのまにか、人の奴隷となり、人の意見を気にし、怯え、影響され、

自分の考えを持たないゾンビ―の一員になり下がってしまう傾向があります。

 

主は真理によって、私達を解放しに来て下さったのです。

私達が主を信じ、主のお語りになる言葉を聞いて従う者となれるように、

私達を罪から解放されたのです。

それがただ霊のうちだけでなく、肉においても主の御霊が導かれる時には、

主の御声についていくことができるように自由にして下さいますように。

 

 イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、

 「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、

 あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。

 また真理を知るであろう。

 そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。

                                      (ヨハネの福音書 8章31-32節)

 

 

 イエスは彼らに答えられた、

 「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。

  そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。

 しかし、子はいつまでもいる。

  だから、もし子があなたがたに自由を得させるならば、

 あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである。 

 わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っている。

 それだのに、あなたがたはわたしを殺そうとしている。

 わたしの言葉が、あなたがたのうちに根をおろしていないからである。

                                              (ヨハネの福音書 8章34-37節)

 

 

 すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。

                                           (ローマ人への手紙 8章14節)

 

 

 自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。

 だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。 

                                          (ガラテヤ 5章1節)

 

 

 兄弟たちよ。

 あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。

  ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。

                                                (ガラテヤ 5章13節) 

 

 

祈り:

今、誰であれ、肉おいても霊においても、

病気、人間関係、金銭、悪霊、自分の弱さや障害...

何であれ、それらのものの束縛にある人達が解放されますように。

完全に自由になって、その自由をもってあなたと人々に仕えることができますように。

 

ある場合は、一生まとわりつくものも何かの理由で許されているようですが、

主よ、そうであっても、私達の心と霊はそれらの奴隷となる必要はありません。

自由にあなたに仕えさせて下さい。

そして「みこころなら」物理的にもそれらから解放して、自由にして下さい。

 

自由は真理に留まることによって、真理に立って、

敵の嘘に自分の心と霊の領域を譲らないことから来ます。

あなたが下さる自由がほしいです。

自由を失いたくありません。

自由に、自らの意思であなたに仕え、

が動機で決断し、行動できる人生がほしいです。

 

主よ、解放して下さい。

私が気づいていないから解放されますように。

罪の奴隷状態から解放して下さい。

愛の御国御霊において、この地上においても広まりますように。

あなたの子として、世の光となり地の塩となれますように。

イエス・キリストのお名前で祈ります。

アーメン。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

昨日、昼ご飯を食べた後に四男さんから電話があり

急に仕事が午後から休みになったので家に来ると…(去年の誕生日ぶりです)

私の誕生日にウォーキングシューズを一緒に選んで買いたいというのです

ところが先日、次男夫婦と一緒に

ウォーキングシューズを選んで買ってくれたばかりだったので

さてさて、どうしようか?…お花がいいかな?・・・欲しかったミモザは今は無いだろうし・・・

それなら!と、

夏のウォーキングに着る上着を買ってもらうことにしました

いつも黒とか紺とかだけど思い切ってサーモンピンクを選びました

これも私の中で大きな変化です

 

それから、一緒にぶらぶら歩いて私の好きな珈琲豆と、ケーキの代わりに西瓜を買ってもらい

早々に帰らないといけないようだったけど、家で簡単に夕飯を食べてから帰りました

孫たちの学校での様子や、仕事の話や、ワクチンについても少し話しましたが

なかなか見えない束縛に縛られていることが多いですね

それは、皆さんにとっても同じだと思いますが

 

「見ざる、聞かざる、言わざる」、の賢い処世術は私にはあまりないし

益々、解放のために祈らずにはいられないです

自分が知っている範囲の責任をもって、真理の言葉を伝え続けないと・・と思いました

主の霊をもって自由に!

 

 

感謝します

*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○

 

                                                 (2019年のももちゃん

 

 

 

 

今日もありがとう~ラブラブ

 

 

 

 *:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆

右差しはじめての方へ | 休息と癒し (kyusokutoiyashi.jp)

 

右差し「ダーク・トゥ・ライトhttps://darktolight.jp

私達が主の御声を聞くことにおいても成長できますように。

「ひとしずく」の感想、関心のある方は、dorcas12@gmail.com へご連絡ください。  

 

*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆