”礼拝メッセージ「変革を通して家族となる!」” 「空の色」♪ | sarah‐mercy

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イエスの愛と共に
猫にも花にも愛は注がれている

 

(転載)  

 「変革を通して家族となる!」     

    マルコ3:31~35、ヨハネ3:1~8

序)

 オーストラリアで実際にあった話ですけれど、ある一頭の母親のカンガルーが、

自分の子どもが大きくなってもお腹の袋の中に入れて育て続けました。

そのため、子どもを外に出しても、子どもはおびえて、

すぐにお母さんのお腹の袋の中に飛び込んでしまいました。

そうすると、母親も子供も疲れ果てて、何十歩もいかないうちに倒れてしまいます。

カンガルーというと、ピョンピョン飛んでいる姿が当たり前に見えますが、

この倒れてばかりいるカンガルーの親子の姿を考えると、心が痛くなりますね!

今日のメッセージのタイトルは「変革を通して家族となる!」です。

 

,肉の親子関係における変革

 皆さんは日本の親子関係をどのように考えるでしょうか?

土居健郎という方はアメリカに留学した時にカルチャーショックを受けます。

それは「甘え」というものです。

この「甘え」は、海外の国にはない日本独自のものだと発見するのです。

そして1970年代にベストセラーとなった「甘えの構造」という本を書きました。

では「甘え」とは何でしょうか?

土居教授はこのように定義します。

 “「甘え」とは、周りの人に好かれて、依存できるようにしたいという、日本人特有の感情”

だそうです。

つまり日本では他の様々な人間関係においても、親子関係のような親密さを求めると言うのです。

 

 実は別の言い方をすると、欧米は「父性型社会~父親と息子型~」

日本は「母性型社会~母親と息子型~」だと言うのです。

つまり欧米では子どもを突き放して自立させるのに対して、

日本では何でも子どもを助けようとし、共依存、つまり、互いに依存しあう関係になりがちで、

自立しづらい親子関係であるということです。

ですから、著名な心理学者である河合隼雄先生は子どもの

「母なるものからの心理的自立の必要性」ということを主張されています。

 

つまり、子どもは生まれてからお母さんの保護を受けて育ってくるわけですが、

成長にともなって、その母なるものから脱却しなければならない、ということなのです。

言い換えると、子どもは親の過保護の中にずーと居続けるならば、自立できないといことです。

家を出て、自分で炊事、洗濯、掃除、身の回りのことをしていかなければならないです。

親が進めた学校、親が進めた仕事、親が言うことに全部従って

「はい」「はい」「はい」と言うのではなくて、

自分の意志をもって独り立ちしていかなければならないのですね。

では親はどうしたらいいでしょうか?

 

 今日のマルコのテキストを見ると、32節にあるように、大勢の人々がイエス様の話を聞こうと、

イエス様を取り囲んで、イエス様の口から出るみことばに耳を傾けていました。

すると、群衆はイエス様の母マリアと弟たち妹たちが外に立っていることに気づいて、

イエス様に「ご家族が来られています」と言ったのです。

その時のイエス様のお答えは「わたしの母、わたしの兄弟とはだれでしょうか?」でした。

非常にそっけなく聞こえますね^^

 

 ここで、イエス様の実際の家族、特に、お母さんのマリアにスポットを当ててみたいと思います。

イエス様の母マリアを始め、弟たち妹たちは20数年間、一緒に生活を共にしてきましたが、

この時、イエス様のみことばをまったく聞こうとしないのです。

それどころか、21節にあったように、人々が

「あのイエスは頭がおかしくなってしまった。狂ってしまった!」といううわさを聞いて、

イエス様を自分たちのナザレの村に連れ戻すためにやって来たのでした。

家族でありながら、全くイエス様のことを理解していないばかりか、

実際、イエス様のメッセージに耳を傾けている人々の礼拝を中断させ、

イエス様を連れ去ろうとしているのです。

 

 イエス様の母マリアは、どうしてこのような上から目線の態度になってしまったのでしょうか?

それはマリアが、みことばの約束を忘れてしまったからです。

肉の親子関係でいつまでもイエス様を自分の子どもだと見てしまっているためです。

 

あの30年前、マリアは不思議な方法でイエス様を身ごもり、出産しました。

イエス様はヨセフとマリアとの間にできた子どもではないのです。

イエス様は聖霊様によってマリアから生まれた子です。

イエス様はまさに処女降誕によってこの世に来られた不思議な方です!

しかし、時間が経つ中で、母マリアはこの不思議な体験や神様の約束をまったく忘れてしまったのです。いつまでもイエス様を自分の手の中にある息子だと思っていたのです。

ですから、肉の家族、親子関係で上から目線で見ていたのです。

これが親の失敗です!

親は子どもを一人前の人格として認めなければならないのです。

これが肉の親子関係における変革という意味です。

 

 

,新しく生まれてイエス様の家族となる!

 では、一般の宗教を信じる人々とクリスチャンとは、何が違うのでしょうか?

一般の宗教は自分を変える必要がないのです。

しかし、クリスチャンになるには「私は教会に入会します。」とか

あるいは毎月しっかり献金します。」

あるいは「礼拝に毎週出席します。」と言ったとしても、

クリスチャンになることはできません。

もちろん、良い行いをすることは大切なことですが、「良い行い」をしても、

クリスチャンになることはできません。

イエス様を救い主としてご自身の心の王座にお迎えして、初めてクリスチャンになるのです^^

 

 ある夜、サンヘドリンというユダヤ最高議会の議長が、イエス様の元をお忍びで訪ねてきました。

彼はイエス様が神様のもとから来られた教師であることを認めていました。

それで、その秘密を知ろうとしてやって来たのですが、イエス様はこう仰います。

 

 「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。ヨハネ3:3)。

 

それで、彼は「そんな!母親の胎内にもう一度入ることはできません」と、

大真面目に答えます。

その時、イエス様は彼にこう言われました。

 「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。

 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。ヨハネ3:5~6)。

 

 皆さん!新しく生まれるという意味を、ユダヤ最高議会の議長ニコデモの様に、考えますか^^?

そのような方はいないようですね^^

この「新しく」という言葉は「上から」と訳せるみことばです。

つまり、救いは神様からの恵みだということです。

ヨハネ3:8にあるように「上から生まれる」ということは、吹く風がどこから吹いて、

どこに行くのかわからないように、天からの聖霊様の一方的な働きなのです。

 

 イギリスの有名な牧師で、素晴らしいメッセンジャーであったスポルジョンの16歳の時の話です。

彼は悩んでキリスト教会へ通い、救いを求めていました。

ある日曜の朝、大雪のため、いつもの教会へ行けません。

そこで雪の中、これ以上進めないと思ったとき、目の前にある小さい教会に飛び込んだのです。

15人くらいの小さい集まりでした。大雪のため牧師は欠席。

そこで相談して講壇へ立ったのは靴屋さんに見える信徒の方でした。

彼はただ1節のことばを繰り返し語りました。

それはイザヤ45:22でした。

 「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。

 わたしが神だ。ほかにはいない。」。

 

 彼は言います。

「皆さんとても簡単なみ言葉です。見るために大学へ行く必要はありません。

み言葉はわたしを仰ぎ見よと言います。

皆さんの多くは自分を見ています。何の役にも立ちません。

わたしを仰ぎ見よ』。 キリストを仰ぎ見なさい!「わたしは血の汗を流した。十字架にかけられた。」

わたしを仰ぎ見よ』。わたしは死んで葬られた。

わたしを仰ぎ見よ』。私は甦った。

わたしを仰ぎ見よ』。「わたしは天に昇り、父の右の座についている。」哀れな罪人よ、

わたしを仰ぎ見よ』。ここまで来てことばが尽きてしまいました。

 

 そのとき彼はスポルジョンを見ました。

そしてスポルジョンが新来会者であるのを知って、彼は言います。

「そこのお若い方。あなたは悩んでいます。お若い方。

イエスキリストを仰ぎ見なさい。見なさい。仰ぎ見さえすれば生きるのです。」と。

その時、スポルジョンは頭を殴られたように感じました。

そして彼の心にわたしを仰ぎ見よ。というみことばが強く響いて来ました。

まさにこの時、スポルジョンはこのみことばを心に受け入れ、新しくされたのです。

御霊によって生まれたのです!

この時、イエス様の家族となることができたのです。

 

 ところで、第一ペテロ1:23には

あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、

生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。と記されています。

ヨハネ3:5~6には

人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。

肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。ヨハネ3:5~6

と記されています。

つまり、聖霊様はみことばをもって人を救いに導かれ、神の家族とされるのです。

 

 

,十字架で死ぬことによってイエス様の家族となる!

 それでは、マルコ3:33~35をもう一度、拝読しましょう。

33すると、イエスは彼らに答えて『わたしの母、私の兄弟とはだれでしょうか』と言われた。

34 そして、ご自分の周りに座っている人たちを見回して言われた。

『ご覧なさい。私の母、私の兄弟です。

35 誰でも神の御心を行う人、その人が私の兄弟、姉妹、母なのです。』」。

ここでイエス様は神の御心を行う人こそ、イエス様の家族だと言われました。

 

 ではイエス様が行った御心とは何だったでしょうか?

それは十字架に架かられる前、ゲッセマネの園で祈られた祈りに表れています。

父よ、この苦しみの杯をわたしから取り除いてください。

しかし、わたしの望むことではなく、あなたの御心がなされますように!」。

イエス様はこのように祈られ、天の父の御心である十字架に架かられたのです。

御心とは十字架に架かることでした。

 

 また、イエス様は十字架に架けられ、息を引き取られる少し前に、このようにも祈られました。

「エロイ 、エロイ、レマサバクタニ。」

つまりわが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですかと。

ここでイエス様は今までと違うお祈りをされているのです。

今までは「アバ、父よ」と「お父ちゃん」「パパ」と神様に対して呼ばれていました。

なぜなら、イエス様と天のお父様は1つであったからです。

天地創造も天のお父様との共同作業でした。

 

またイエス様は、天のお父様の口から発せられる神のことばでもあります。

切っても、切っても、切り離すことのできない三位一体なる関係です。

ですから、親しく「アバ、父よ」「お父ちゃん」「パパ」と神様に対して呼びかられていたのです。

完全に1つである関係だったのです!

それなのに、あの十字架上において、イエス様は

わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか

天の父なる神様に完全に見捨てられてしまったのです。

言い換えるならば、

イエス様が天の父に見捨てられたことによって、神の家族への道が開かれた!

ということなのです!

 

 ですから、ガラテヤ3:13には

キリストが私たちのためにのろいとなられたと記されています。

また第二コリント5:21には

神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。

それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。と記されています。

つまり、イエス様が罪そのものとされたということです。

よく「罪を憎んで人を憎まず」と言われます。

けれども、人間にはなかなかそう出来ません。

自分に対して罪を犯した人を、その罪と一体にして、憎んでしまいます。

 

 しかし、神は「罪を憎んで人を憎まず」ということがお出来になるお方です。

そこで、神は私たちから罪を切り離され、そのすべての罪をイエス様の上に載せて罪そのものとされ、

激しい怒りを注がれたのです!

これは御子イエス様がお飲みになることを躊躇された苦い杯でした。

いいえ。御子イエス様だけではありません。

天のお父様の激しい悲しみと苦しみでした。

そしてこれが御心の道だったのです。

なぜなら、この十字架によって、絶対に救われることのできない罪人が裁かれることなく、

永遠のいのちをいただき、神様の子どもとされるからです!

イエス様は誰でも神の御心を行う人、その人が私の兄弟、姉妹、母なのです。

と言われました。

そして、ご自身が御心を行う模範となられたのです。

 

 少し前、東京の山谷でホームレス伝道をしておられる森本春子先生のお話をさせていただきました。

これは森本先生がホームレスの方と結婚式を挙げてから後のお話です。

ご主人はいつも、苦虫をかみつぶしたような顔をしておられたそうです。

なぜなら、精神的にはうつ病を抱え、体は肺病で血を吐いていて、もう廃人同様だったからです。

やせこけて、頬は出っ張っていて、まさに80歳の老人みたいな顔をしていたそうです。

ところが、皆さん、不思議なことがあったのです。

ある日のこと、ご主人が横を向いている時、そのしわくちゃの横顔が、

一瞬、イエス様に変わったのです。

そして思わず祈ったそうです。

「あっ、主よ。私の人生のこの黄昏時に、もう一度私に青春をくださったことを感謝します。

主よ、この人が救われるために、私はこの人の救いのためならば、私の命も捧げます。」と。

 けれども実際の生活では、森本先生は、朝は夜明け前に出かけられ、

日が暮れて帰ってきても、夕食後、お風呂に入って寝てしまいます。

夫婦がお互いにゆっくりと口をきく時間がなかったそうです。

それで何と、ラブレターを書き始めました。

「最愛の夫である○○様へ」と書かれたそうです。

すると、孤独の中の孤独を四十何年間生き抜いてきた人にとって「最愛なる○○さん」という、

その言葉がジ~ンときたそうです。

それから

「わたくしは鈍感な人間ですから、あなたが何を考えているのか、さっぱりわかりません。

できましたら、あなたの思っていること、考えていることを言ってください。

私は足りないことが多いから、怒ってください。」と。

これをご主人の机の上に置いたそうです。

そして、これをきっかけとしてご主人がまったく変わったそうです。


 森本先生はこう言われます。

「幸せな夫婦になりたいならば、まず、ご自分が死ぬことです。

自分が死んで相手を立ててあげることです。

人間はだれにでも欠点があります。

私はもう、自分ほど欠点が多くて、こんな馬鹿な人間はいないと思って、自分で愛想が尽きます。

けれども、皆さん、神様は、決して私に愛想をつかれないのです。

皆さん、神様のその聖なる愛を思うとき、

どうして、私たちもまた相手の欠点を赦さないでおれましょうか。

まず相手の欠点に目をつむり、相手を立ててあげることを心がけてください。

これがよい結婚の秘訣ですよ。」。

 

 皆さん!神の御心を行うならば、イエス様の家族です。

自分に死んで、相手を立てて上げましょう。

ここにイエス様の幸せな家族の秘訣があるのです。

お祈りします!

 

ガラテヤ2:20

私はキリストとともに十字架につけられました。

もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、

神の御子に対する信仰によるのです。

 

 

「変革を通して家族となる!」

1,肉の親子関係における変革

2,新しく生まれてイエス様の家族となる!

3,神の御心を行うことによってイエス様の家族となる!

 

(転載おわり) 河野ハレさん、ありがとうございます   

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三つのカテゴリーに分けてまとめてくださいましたが、とても深い内容ですね

一番目の肉の親子関係における変革からも考えさせられます

とかく自分のことばかり見つめてしまいがちですが 

御心の道を歩くということは、このような事なことなのですね

どんな時も『主を仰ぎ見ること』

これが大切なことなんだなぁ・・・

 

御心の道を歩くためには、御霊が必要

御霊があるなら、そこに平安がある

そして、イエス様の家族になれるってしあわせ

どんなときもイエス様を仰ぎ見ていこう

 

 

御霊によって歩みなさい

そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません

(ガラテヤ5:16)

 

 

感謝します

                          ハート  ハート   ハート

 


昨日は夏空みたいに入道雲がもくもく・・・だったけど、いきなり灰色雲が

天気予報では雨が降るなんて言ってなかったのに、「雨が降る!」とおもったとたん雷雨雷

急いで窓を閉めたけど「ももちゃんは?!」って見たら、ちゃーんと雨宿りの場所に

ももちゃんは知ってるんだよね

空は色んな事を教えてくれるね

 

 

今日もありがとうハート

 

 

 

 

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