こんにちは、しゅんすけです。


今日は ちょっとの違い というお話です。








たった今…

椅子に座って、目を瞑り、寛いだら静寂を感じました。



全ての源が、この静寂です。



全て、というのは

人間しゅんすけさんという感覚や

ブログの書くために手を動かす力や

目の前のある部屋という認識や言葉…

全て  です。




感覚、力、認識、言葉…

あらゆるものは

静寂からやってきて

静寂へと還っていきます。








コンパスで言うならば

針がある中心が静寂で

筆がある末端が感覚、力、認識、言葉 …

というように

その時、その時に応じて変化します。




至福であっても

増悪であっても

それが感覚、認識、言葉である以上

中心… 静寂と繋がっています。




コンパスの針は、常に、あなたの中心です。



心の中の、さらに真ん中…

真空のような、虚空のような…

言葉に表すことができない静寂です。




全てがソコから現れてきています。



もし、あなたが

太陽を見るならば、太陽が静寂から現れるし

月を見るならば、月が静寂から現れて

あなたの認識、知覚になります。



たった、それだけのことです。



肉体の目を通してみるのではなく

心の中の静寂から全てを見れば

こうしたニュアンスも実感することができるでしょう。







普段、あなたの意識が何を基準にしているのか?


考えてみてもいいでしょう。




肉体を基準にすれば、外側と内側とわけることができます。



シャワーを浴びて、外側からお湯が当たり、弾けていきます。

皮膚を境に、内側には入ってきません。




シャワーのお湯の流れは、外側で起こってることです。


「次は、顔を洗おう」と思ったとすれば、それは内側で起こっています。



外側では… シャワーのお湯が流れ

内側では… 「顔を洗おう」と思ったりする



これが、肉体を基準にした一例です。








これを静寂を基準にしてみれば、全ては外側で起こってることです。



外側では… 「顔を洗おう」と思ったりするし

更に外側では… シャワーのお湯が流れています。




静寂からの距離感こそ違えど

物理的な現象も

心理的な想念も

外側で起こっていることです。




じゃあ…

静寂を基準にした時の内側ってあるのか?

といえば、ありません。



静寂の内側は、静寂なので

わけようがありません。



どこまでも、無限に広がる静寂があるだけです。




そんな広大な空間を内に秘めたまま…

外側に目を向けて

あーだこーだしているのが人間です。




人間しゅんすけさんも

今日も

あーだこーだしています。




ただ、気が向いた時には

椅子に座って、目を瞑り、寛いだら静寂を感じているだけです。





肉体でもなく、思考でもなく、感情でもなく

静寂という不滅に寛ぐだけです。




目覚めているかどうかなんて

そんな

ほんのちょっとの違いに過ぎないのかもしれません。











今日の話はここまでにしたいと思います。


読んでいただきありがとうございました。





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