今日は気持ちいい晴れでした。


散歩日和でポカポカ気持ちよかったです。










先日、お客さんと電話していました。


メルサポ中に一瞥体験をして、悟り、覚醒に向かっている方です。


今回は、そういった方が、どうやって至るかの実例を紹介します。









悟り、覚醒を山登りに例えれば、人によって山頂へのルートは様々です。


ルートによっては

スロープみたいな山道をゆっくり登る方もいれば

チェーンを使って一気に登る方もいます。



今回の話は、8号目~山頂の話です。








まず一瞥体験はどんな時に起こるか?について書きます。


基本的に、極限の感情体験をしてる時に起こります。


イメージとしてはゴムです。


つらいー、とか

悲しいー、とか


極限の状態に触れたとき、ゴムは、すごい伸びています。









そして、何か突き抜けた時、パチンと戻ります。


右の自意識と、左の神意識が一瞬だけ「ひとつになる」感じです。



その時、一時的に、それまでの辛さや悲しさがウソのように軽くなり、驚くほど楽観的になります。



人によっては

それを至福のように感じたり

世界との一体感を感じたりする人もいます。



そして、数時間から数日かけて、いつも状態に戻っていきます。


これが一瞥体験です。










ある意味、一瞥体験は、心が壊れないためのセーフティネットのようにも感じます。


変性意識とか、神秘体験とか、至福体験などと呼ばれることもあります。


悟り、覚醒に至ると、こうした体験はなくなります。
(ありのままの現実体験になります)









僕は4回くらい体験しました。


最初の頃は、特別な体験をしたとテングになったりしていました。


2回目の時は、至福感と日常のギャップに陥り、不満やグチが湧いてきました。










一瞥体験をすると、一時的にとは言え、本質からの見方、捉え方を体験します。


まるで、真理という果実を、不意に食べてしまったようなもので、言葉として説明はできなくても「味わったこと」は無かったことにできません。


だから、ブログとか、音楽とか、アニメとか、映画とか、ゲームとか


どこかで本質的な視点に出会うと「そうだよね」「なんかわかる」という感覚にもなります。
(本質はすべてに宿っているから)



例えば、すべては愛です、と聞いた時

「そうだよね」「なんかわかる」という自分Aがいるけど

「いやいや、そうはいってもさ」みたいな自分Bもいる感じです。


二つの自分がいる感じです。








僕は3回目の一瞥体験をしたとき、この感覚を共有できたり、会話できる人がいないことに気づき、苦しかったです。


人間にとって「話せない」というのは、こんなにもストレスなのかと実感しました。










話を戻します。


本質、真我を自分Aとすれば

人間、自我を自分Bとします。


一瞥体験すると、自分Aと自分Bを感じるようになります。


基本的に、この二つを融合させていくことが悟り、目覚めのプロセスになります。








例えば、Aは楽観的なキャラなので「何とかるさー」という感じです。

Bは現実的なので「そんなんので、現実生活ができるの?」とか心配します。

そんな二つの自分が混在する感じです。




一瞥体験した方の目覚め方は、Bを確認してAに戻る、という繰り返しです。




テニスは打ったら真ん中に戻る、が基本のようですが、ちょうどそんなイメージです。









ココでポイントなのは

A→Bはオート(自動的)に移動するので

B→Aを意識すればいいだけ、ということです。



先程の例えを使えば「そんなんので、現実生活ができるの?」といった心配はオート(自動)なので、それを感じたら「何とかるさー」に意識的に戻ることです。



心配な自分Bを感じたら、本質の自分Aに戻る。


そんなイメージです。










何度も、真ん中に戻ることです。


だんだんと、BとAの距離が縮まって、融合してきます。








テニスの例え「打ったら戻る、真ん中に」を続けていれば、そのうち、今の自分が、AかBかかわからなくなる時があります。


それは、AとBが融合している状態です。


でも完全に融合していなくて、混ざり具合に濃淡があります。


「いい混ざり具合」のところでは、混沌としていて、穏やかさを感じられます。


そういう時は、そのまま、曖昧さや穏やかさを味わうことです。


混沌さ、わからなさ、という穏やかさや安心を味わってください。



言葉が必要じゃないし、静かな感じです。


静寂です。










そんな静寂にしばらく浸っていると、言葉が湧いてきます。


それが自分Bです。
(自動・オートで分離します)



コーヒーミルクで例えれば「いい混ざり具合」のところから、「まだミルクが分離してる」ところに意識が向いて、自分Bが現れます。


自分Bが現れる時、必ず自分Aもいます。


だからその時は、必ず「まだコーヒーだけの」自分Aが現れます。


だから、意識的にB→Aに戻ります。


そうして、まだ分離しているコーヒーとミルクを、意識的に混ぜていきます。









自分Aと自分B、は双葉のように、必ず二つセットなんです。(二元性)



見る者Aと、見られる者B、二者一対なんです。



Aはただ見てるだけ。

Bはそれ以外のすべてです。










心配者Bが慌てても、観察者Aを信頼していると


Bの心配事は、不思議とうまく乗り越えられます。
(Bからしたら、恐いかもしれないけど上手くいきます)


そういう現実体験を通して、BとAと信頼関係を深めていきます。


「Aに任せておくと楽だ」とBが実感していくのです。


そうすると、融合していきます。








こんなことを続けていくと、だんだんとコーヒーとミルクの融合が進んでいきます。


そして、だんだんと面白くなってきます。


「自分」を体験して微笑んでいる感覚になります。


Aだろうか、Bだろうか、と判断することもなくなります。


ただ、シンプルに、自分を微笑ましく味わうだけです。


まるで「自分」が、公園で遊ぶ子供のように感じられて、愛おしく見守るような感覚になります。


(*´꒳`*)ヨキヨキ


みたいな感じです。










それが、神さま、仏さまの視点です。


酸いも甘いも、どんな自分も愛おしいのです。


仏さまが微笑んでいる像があるけれど、アレは、そんな境地を表しています。


(*´꒳`*)ヨキヨキ


なんです。









ソコに至れば、実感します。


何も許せないことなんかない、初めから許されていると実感します。


それを自覚して、実感して、目覚めたね、おめでとうなんです。











ここで話したのは一例です。


細かいプロセスは、千差万別です。


目覚めるために、一瞥体験は必須ではないし、一瞥体験なしでも至った方々もいらっしゃいます。


一人ひとりルートは違います。


そういうものなんです。









コーヒーとミルクが完全に融合したら「本当の自分」の完成です。


素敵な目覚めの一杯を味わってください。









今日のお話はここまでにします。


読んでいただきありがとうございました。













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