お久しぶりです。メンフィスです。ネタがないので今回は僕が選ぶ高校野球の名将トップ5を挙げてみたいと思います。かーなーり独断と偏見が混じっています。ご注意ください。
第1位 蔦文也監督 (徳島県立池田高校)
通称、阿波の攻めダルマ。1952年、池田高校野球部監督に就任。1971年夏、甲子園に初出場を果たすと、74年春には部員11名で甲子園に乗り込み、「さわやかイレブン」旋風を巻き起こし、準優勝。79年夏にも尾藤公監督ひきいる箕島高校に決勝で敗れるものの、準優勝。蔦監督といえば、80年代に一世を風靡した「やまびこ打線」を作り上げた監督である。金属バットの特徴に着目し、当時としては異例だったウェートトレーニングや練習中の水分補給などといった今となっては当たり前の方法を先取りしていた。蔦監督がいなかったら、今の高校野球はなかったといっても過言ではない。また、無類の酒好きで有名。
春夏合計14回出場。通算37勝、優勝回数3回、準優勝2回。01年に肺がんのため77歳で没。
第2位 木内幸男監督 (取手二、常総学院)
木内マジックと呼ばれる意表を突いた采配を振るう戦略家といってもいい監督。1957年に取手二の監督に就任すると、弱小だった取手二を強豪校にまで押し上げ、1977年夏に甲子園初出場。その後、取手二では春夏通算6回の出場を誇る。84年夏にはKKコンビ擁するPL学園に勝利し、優勝。85年からは常総学院に移る。その後2003年に一度勇退するも、2007年に復帰。しかし、2011年に再度勇退する。基本的には、選手の育成を行うというよりも、自身の戦略を徹底的に選手に叩き込むという指導を行うため、教育も兼ねた高校野球では聊か疑問が残る。しかし、その木内マジックと呼ばれる采配には一切の博打がなく、すべて計算の上で行っている。
春夏合計22回出場。通算40勝、優勝回数3回、準優勝2回。
第3位 高嶋仁監督 (智弁学園、智弁和歌山)
「常に全力を出し切る」がモットーのユーティリティープレイヤー養成所。1972年に智弁学園の監督に就任すると、春ベスト4などの好成績を残す。80年に智弁和歌山に転任すると、94年に春優勝、97年、00年に夏優勝。例年複数投手制を布き、一人の選手が複数のポジションを守れるようにする。一見、攻撃力に注目が集まりがちの高嶋野球だが、実際に高嶋監督が目指す野球は投手を中心とした守りの野球であり、ノックの技術もアマチュア球界屈指のものを持つ。また、選手交代のタイミングが絶妙であり、野村克也氏も絶賛するほどの采配を振るう。
春夏合計34回出場。通算63勝(歴代1位)、優勝3回、準優勝3回。
第4位 小倉全由監督 (関東一、日大三)
通称、町田の闘将と呼ばれるように、豪快な攻撃野球を好む。小倉監督曰く「10点取って0点に抑える。これが自分の理想の野球」というように、日大三2度の優勝には強力打線と絶対的エースの存在がいた。
1981年に関東一の監督に就任、87年春の甲子園で準優勝。97年に日大三に移ると、01年夏、11年夏に甲子園優勝、10年春には準優勝を果たす。指導方法は基本的にほめて伸ばすタイプだが、一方で当たり前のことができていないと、雷を落とすこともある。しかし、ただ叱るだけではなく、監督室でスイーツをつまみながら叱った理由を話し合うなどするため、選手たちには父親のように慕われている。自分の理想の指導者像である。
春夏合計18回出場。通算32勝。優勝2回、準優勝2回。
第5位 尾藤公監督 (箕島)
1966年、箕島高校の監督に就任。68年春に甲子園初出場。70年春に甲子園初優勝。79年には史上3校目の春夏連覇を達成する。若いころはスパルタ指導で選手を鍛えていたが、一度監督を退き、再び就任した後は練習の厳しさこそ変わらないものの、試合中は笑顔でいることが多く、上甲正典等に影響を与えた。また、延長戦での劇的なサヨナラ勝ちの多さから「勝負師」と称された。95年監督勇退。
春夏合計14回出場。通算35勝。優勝4回、準優勝0回。11年に膀胱がんのため、68歳で没。