忘れないようにメモメモ(日本の歴史、近代史) -213ページ目

学問のすゝめは、学問をすすめているわけです

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「白己実現」の欲求は人間誰しもに在る。ただ人生のどの分野、どんな場面に於いて、又どの程度の規模で人がその白己を実現するのであるかは人によつて千差万別である。 明治の初年に福澤諭吉は『学問のすゝめ』初編の冒頭で、<……天より人を生ずるには、万人は万人皆同じ位にして、生れながら貴賤上下の区別なく、万物の霊たる身と心との働を以て天地の間にあるよろつの物を資り、以て衣食住の用を達し……>との大前提を置いてあの大議論の展開にとりかかつた。往々浅薄な誤解、むしろ曲用を散見することがあるが、福澤はあまりにも有名な巻頭の一句を以て決して人間の世に自由・平等を実現しようとの意図を以てあの論述に着手したのではない。逆に、天は人の上に人を造らず人の下に人を造らなかつた、それにも拘らず目前現実の世に貧富・貴賤・賢愚の区別、雲泥の相違が生じてゐるのは何故か、偏に是、学問の有る無しに依る、との論理を貫徹するための大前提としてあの有名な定言を置いた。 つまり結論は、<人は生れながらにして貴賤貧富の別なし。唯学問を勤て物事をよく知る物は貴人となり富人となり、無学なる人は貧人となり下人となるなり>に収飲する、題名通りの「学問のすゝめ」に落着くのである

ーー(奪はれた歴史 小堀桂一郎)


「国を愛する」ということ・・・イスラエルから

西村真悟の時事通信 より


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「国を愛する」ということ・・・イスラエルから
No.257 平成18年11月12日(日)
西 村 真 悟


 現在、教育基本法改正法案が衆議院で審議されている。
それで、月曜日から金曜日まで、国会議事堂と衆議院議員会館の間の歩道には連日「改悪反対」の多くの人々が座り込み、マイクで反対演説を続けて喧噪甚だしい。
 曰く、改正案は、戦前の軍国主義に戻るものだとか、侵略戦争に道を開くものだとか、およそ荒唐無稽な反対論を正義に酔っているかのように延々とマイクで流している。そのマイク音は、四六時中議員会館の各部屋の中に入ってくる。一種の威力業務妨害である。よく街頭右翼が大声でがなりながら道を突っ走っていくが、あれは数秒で走り去っていくが、こちらはずーと議員会館前でやっている。この場所では、右翼のマイクは許されないが左翼は許されるのである。右翼が来れば警察はその車を止めて国会周辺に入らせない。左翼がマイクを使っていても警察は遠巻きに見ているだけだ。警備上のこの使い分け、何故か分からないが、正当性がない。
それはともかく、連日集まるこの人達の職場はどうなっているのだろうかと、時々思う。多くは、学校を職場としている人達であろう。子供達に自習をさせてここに来ているのであろうか。

 さて、この度の教育基本法改正案には、与野党両案ともに、教育における「国を愛する」という視点が盛り込まれている。
 もっとも、自民党案の「国を愛する態度を教える」というのと民主党案の「国を愛する心を教える」というのと、どちらがいいか、という協議はある。
 もちろん、教育においては、「こころ」つまり精神を教えるのであり、精神はどうでもいいから態度だけはこうしておけという面従腹背のテクニックを教えるのではない。従って、「国を愛する心を教える」という端的な表現を尊ぶべきである。
 しかし、自民党側は、「自・公連立与党であることを理解してくれ、国を愛する態度を教えるというので精一杯なのだ」という事情のもとに、自民党案に固執する「態度」を貫いている。他方、民主党も奇妙である。与党案に優る法案を提出しておきながら、改正案の廃案を目指して、採決反対である。

・・・と言うわけで、この国会内の事情を、これ以上細かく述べようとは思わない。ただ、「国防」という国家最重要の課題を六十年間見てこなかった我が国の国政においては、以上の通りの次元だということをご理解いただきたい。
 その上で、次に「イスラエル建国の父」そして「片腕の英雄」と呼ばれたトランペルトールという人物に関するエピソードを紹介したい。

 司馬遼太郎さんは、江戸時代の日本人には、近代国家の国民という意識はなかったという。江戸時代は近代国家ではなかったのだから当然であろう。
 では、明治維新を経て形成されてきた我が近代国家とは国民に何を求めたのであろうか。司馬さんは、それは、国のために死ぬことだったという。
 そして、明治の日本人は、日清・日露の国家存亡を賭けた戦争に於いて、この驚くべき近代国家の要求に応えた。この様な国民が日本にいなければ、我が国も我が文化と文明もその時に他民族に蹂躙され滅んでいた。
 
 そこで、日本国民は、如何なる思いで、この国家の要求に応えたのであろうか。この思いをトランペルドールは、一人の日本軍兵士から教わり、彼は、イスラエル建国の英雄となったのである。そして今、我が国こそ、トランペルドールが我が国から何を学んだのかと、自らの歴史を見直し、イスラエル建国のいきさつを学ぶ必要があるだろう。

 今から百年前の日露戦争時の一九〇四年、トランペルドールはロシア兵として旅順要塞に立て籠もって日本軍と闘っていた。彼は左腕を失っても戦い続けたが旅順開城により日本軍の捕虜となり、私の郷里である大阪府堺の浜寺ロシア兵捕虜収容所に送られてきた。
 この浜寺捕虜収容所(今の行政区分では高石市)で、トランペルドールは、直ちに日本語を習得して、小国の日本が大国のロシアに打ち勝った秘密を探求した。そして、一人の日本兵が言った次の言葉を終生忘れなかった。それは、「国の為に死ぬほど名誉なことはない」という言葉だった。
 ユダヤ人のトランペルドールにとって祖国はロシアではない。しかし、彼の祖国はその時存在しなかった。従って彼には、祖国を愛することも、祖国のために死ぬことも、今まで具体的に意識にのぼることはなかったであろう。 その彼に、一人の日本軍兵士の語った言葉が極めて重要で新鮮なイスラエル建国につながるインパクトを与えた。即ち、国のために死ぬことが名誉と思う国民の存在が日露の勝敗を分け国家の存亡を決したのだった。従って、この精神は、イスラエル建国の基本となった。
 
 彼は、一九〇五年の日露講和によりロシアに帰還するが、以後ユダヤ人の国イスラエル建国の事業に邁進していく。そして、十五年後の一九二〇年、トランペルドールはパレスチナに於いてアラブ人の銃弾を受けて戦死する。その時に駆け寄った戦友に対して、彼は次のように最後の言葉を発したという。
「俺にかまうな!国の為に死ぬことほど名誉なことはない!」
 そして、このトランペルドールの精神が、イスラエルの建国と現在に至る存続の原点となっている。
 しかし、この精神は、単に明治の日本やイスラエルだけのものではなく普遍的なものである。およそ危機に直面した国民国家の存亡の分岐点となるのは、この精神の有無である。

 では、この「国のために死ぬのが名誉である」というトランペルドールや彼にこの言葉を伝えた日本軍兵士の精神の前提には、如何なる思いがあるのかというと、既に明らかであろう。
 それは「祖国への愛」なのだ。
 誰が、祖国への愛なくして、国のために死ぬのが名誉と思うであろうか。

 現在の一見平和に見えて危機感を喪失した日本に生きる我々は、日露戦争を戦い抜いた日本軍兵士からイスラエル建国の英雄に語られ、今我が国にイスラエルから戻ってきた
「国のために死ぬほどの名誉はない」
という言葉の意味をもう一度よく噛みしめる必要がある。
 そうすれば、「祖国への愛」を教育で教えることを重視するか否かは、実は国家存亡に関わる課題であることが分かるのである。

 この十一月、イスラエルの駐日大使であるエリ・コーエン氏が堺・泉州に来られた。百年前にイスラエル建国の英雄であるトランペルドールがいた浜寺捕虜収容所跡を訪れ、その地で没したロシア軍兵士であったユダヤ人捕虜の墓を訪れる為である。その墓はよく整備され手入れされていたという。
 その晩、堺で一泊されるエリ・コーエン大使と夕食をともにしてワインを飲みながら、日本とイスラエル、また、トランペルドールのことを語り合った。
 さらに、西村眞悟・日本人とエリ・コーエン・ユダヤ人、つまり、多神教の民と一神教の民が、何故この様に気と感性が合うのかというのが大きな話題となった。
 エリ・コーエン大使は、宮本武蔵を崇拝し、伊勢神宮に神秘を感じ、靖国神社に空手や居合道を奉納する日本武道の達人である。そして、堺を訪れて仁徳天皇陵を参拝したとき、強い霊気を感じたと言っていた(イスラエルでは、トランペルドール以来、日本の武道が盛んに学ばれている)。
 最後に、「次に会うときは、核について話をしよう。持っているんだろう」と言うと、「核は、持っていると言わないのが、抑止力なんだ」という返答でオヤスミとなった。

                                     (了) 
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なんで民主党にいるんでしょうなあ。

左翼の「名」発言集

「左翼の「名」発言集」


どのひとの発言もすごい。その中でも長崎市長という肩書きでありながらこんなことを言っていられたということに驚きです。


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・本島等【元長崎市長】
「(引用者注:日本陸軍の)
第五師団は凶暴なる殺人軍団」
「最重要軍事基地(引用者注:広島)が最大の原爆攻撃を受けるのは当然」

出典元:1997年4月、広島平和教育研究所の年報『平和教育研究』24巻「広島よ、おごるなかれ」より

「日本が(終戦までの)過去15年間にわたってやってきた非人道的な行為を考えると、原爆の投下は日本に対する報復としては仕方がなかった。落とされるべきだった」
「(日本による)南京大虐殺、三光作戦、731部隊などは残虐の極致。日本人の非人間性、野蛮さが出ている」
「中国などにとっては原爆は救世主だった。(日本は)一度戦争に引きずり込んだのだから(原爆投下は)最初から覚悟していたのではないか」

出典元:1997年7月29日共同通信のインタビューでの発言

「(引用者注:原爆投下や東京大空襲について)天罰だ」
「日本の悪魔の所業に対する当然の報い」

出典元:1998年7月31日、産経新聞の取材に対しての発言

「北朝鮮がミサイルを撃ったことは悪いことではあるが、そもそも三八度線は日本人が作った」
「北朝鮮に徹底的に謝罪しなきゃならん義務が残っている。」

出典元:1998年10月千葉県立小金高校の「平和・人権委員会」による講演会での発言

「何の罪もないユダヤ人が殺されたホロコーストに対し、重要な軍港があった広島は、日清戦争以来、日本の戦争遂行にとことん協力し、その報復として傷ついた。」
「人をだますことは、日本人の遺伝子の中に組み込まれているのではないか。」

出典元:1999年12月12日「戦争犯罪と戦後補償を考える国際市民フォーラム」での発言

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もう何もかもが日本人のせいというね。このひとがいうには、三八度線も日本人が作っちゃったみたい…。

よく市長になってたなあ、というかしちゃったなあ。4期も務めたそうで。さすが広島。

原爆を落とされたことを「天罰」とは……これはあたまおかしいとしかいいようがない。相手が悪いことをしているのならば、何をしても、どんなことをしてもいいということになるんじゃないかい? 原爆を否定してない、と受け取られてしまうかも。