学問のすゝめは、学問をすすめているわけです
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「白己実現」の欲求は人間誰しもに在る。ただ人生のどの分野、どんな場面に於いて、又どの程度の規模で人がその白己を実現するのであるかは人によつて千差万別である。 明治の初年に福澤諭吉は『学問のすゝめ』初編の冒頭で、<……天より人を生ずるには、万人は万人皆同じ位にして、生れながら貴賤上下の区別なく、万物の霊たる身と心との働を以て天地の間にあるよろつの物を資り、以て衣食住の用を達し……>との大前提を置いてあの大議論の展開にとりかかつた。往々浅薄な誤解、むしろ曲用を散見することがあるが、福澤はあまりにも有名な巻頭の一句を以て決して人間の世に自由・平等を実現しようとの意図を以てあの論述に着手したのではない。逆に、天は人の上に人を造らず人の下に人を造らなかつた、それにも拘らず目前現実の世に貧富・貴賤・賢愚の区別、雲泥の相違が生じてゐるのは何故か、偏に是、学問の有る無しに依る、との論理を貫徹するための大前提としてあの有名な定言を置いた。 つまり結論は、<人は生れながらにして貴賤貧富の別なし。唯学問を勤て物事をよく知る物は貴人となり富人となり、無学なる人は貧人となり下人となるなり>に収飲する、題名通りの「学問のすゝめ」に落着くのである。
ーー(奪はれた歴史 小堀桂一郎)