ポーセラーツ&シュールデコール【Atelier Memory】の教室ブログ 栃木県宇都宮市 -70ページ目

ポーセラーツ&シュールデコール【Atelier Memory】の教室ブログ 栃木県宇都宮市

ポーセラーツ &シュールデコール・ プリザーブドフラワー・グルーデコ・フレンチデコ・カルトナージュ教室 宇都宮  アトリエメモリー

今晩は。
生徒さんのお嬢様で、幼稚園生の作品です。

ハロウィンにピッタリなプレートを作られました。
どうしても、『くもの巣が欲しい!!』という要望に、ママがしっかり応えて、セラミックマーカーでとても上手に描かれました。


ママとお嬢ちゃまの合作。
こういうことができると楽しさも倍増ですね。

今日は、ポーセラーツの同期生のお仲間と久々にお会いしました。本部養成講座をご一緒に受講し、もう11年来のお付き合い。
それぞれが好きな道を進んでいますが、今も刺激し合っています。

知らない土地に嫁ぎ、なかなか友達が出来ず、いつも話をするのは、ガス屋さんとクリーニング屋さんのおじさんだけだった私。

そんな私が、趣味を通じて、仲間を得られたのは、本当に奇跡のようです。有難いことです。


先日山口で、初めてお会いしたSさん。
その方のお母さまも、遠く和歌山県から山口県へ嫁がれました。
その当時、そのお母さまのお母さまが、誰もいない所なのだから、子供を沢山産みなさいと言われたそうで、Sさんを含めて4人兄弟になったと話をしてくださいました。

私は、母から何も言われませんでしたが、きっとさびしがり屋の甘えん坊の私の元へは、神様が4人いれば、大丈夫と思って授けてくださったような気がします。
そして、家族の誰よりもドジで天然ボケが入っている私を助けるために、子供達がいてくれるような気が、最近はしています。有難いことです。


それにしても、本日は新しい技法の勉強もしたのですが、お土産にと皆さんからいただいた、大根、シイタケ、柿に喜びしっかり車に載せたのですが、お道具一式そのままそっくり置いて出てしまいました。

慌てたのは皆さんの方で、すぐにお電話を頂戴し、Uターンして無事にお道具一式も持ち帰ることができました。

今回は、出先で自分の持ち物を持って帰るのをすっかり忘れたサザエさんぶりをまた披露してしまい・・・
皆さんには、「家までの道を忘れずに、ちゃ~んと帰るのよ!」と温かいご声援。
こちらも有難いことです。


それでは、素敵な週末をお過ごしくださいね。




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今晩は。
インストラクターコースの方の作品です。

コンパスカッターと、はさみを使いグラデーション転写紙の美しさが映える素敵な作品を作られました。

夜空に浮かぶ大きな船。大海にはイルカや魚もいます。
とても素敵な作品ですね。


いつもの癖で、作品を見て、またひとり妄想を・・・。

こんなに素敵な大きな船。
1853年に来た、ペリーの黒船来航の際も、日本人にはどう見えたのでしょうか?
天下を揺るがす大事件だったことと思います。

その当時、日本の軍備ではとても外国にはかなわないし、列強からの圧力に対抗できる道を模索していた松陰は、国禁を犯してまでも密航をしようとしていました。


1854年の3月27日の夜、ただ一人の弟子である金子重之助とともに、密航を企てましたが、叶わず、自首をし江戸へ護送されます。前年にも、長崎からロシア艦隊に紛れ込もうとしていたのですが、既にロシア艦隊が長崎を去っていたため、その時も叶いませんでした。

囚われの身になった松陰は、江戸に入り、泉岳寺の前を通りかかったとき、そこに眠る赤穂義士と自分を重ね合わせたのでしょう、有名な句を残しています。

かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂


こうすれば、こうなるとはわかっていたが、やめることはできなかった(我が)大和魂

この歌から松陰の中では、赤穂浪士の討ち入りは藩主への忠義のための、やむにやまれなかった行動であり、実行したら罰せられるのは覚悟の上だった、ということ。松陰の密航という国禁を犯した行為も、日本のためにやむを得ずにやったものであると、自らの行動を赤穂浪士と重ねたのでしょう。

それより以前の1851年、松陰がロシアの艦艇が出没する東北諸国歴訪の願望が拡大し、宮部鼎蔵(ていぞう)と学びの旅路へ出ようとしたのも、実は赤穂浪士討ち入りの12月15日を出発の日と決め、場所は高輪泉岳寺と約束したという経緯もあります。

ですから、あの有名な句も、東北旅行の出発の日を思い出し、口でいうより自分のやるべきことをやる!という強い信念だけで、後悔の気持ちは全くないようですね。

私のように、あ~あの時○○だったら・・・とすぐに後悔するのと違って、男意気?を感じますので、私も女意気?というか、違った意味での女子力アップをしたいところです。
先人たちの話を知れば知るほど、とても勉強になりますね。

それでは、今日も素敵な夜をお迎えください。


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おはようございます。
次男の体調も回復し、また生活も普段通りに戻りつつあります。そして、昨日は久々に長男と二人で買い物もでき、彼がまだ幼かった頃、手を繋いで歩いていた頃をふと思い出しました。
今度手を繋ぐときは、私が年老いた頃になるのでしょうか・・・。ちょっと寂しいですが。

さて、先日インストラクターコースの生徒さんが、お母さまを連れてレッスンへいらっしゃいました。
お母さまも、今までお仕事が趣味のような方だったので、ポーセラーツ体験をなさって、とても楽しいとおっしゃっていただきました。
お母さまの作品。素敵なバラが咲いたアクセサリートレー。



こちらは、洗面所に置かれると、パッと明るくなりそうですね。こちらの転写紙をとても懐かしく感じる古~いインストラクターの方もいらっしゃるのではないでしょうか??

お作り頂いた日にちも、記念に入れられたので、使われるたびに思い出していただけそうで、私も嬉しいです。



さて今年のノーベル平和賞を受賞したのは、パキスタンのマララ・ユスフザイさん(17)
マララさんが生まれ育ったパキスタン北西部では、イスラム武装勢力が「女子が教育を受けるのはイスラムの教えに反する」として女性の登校を禁じ、マララさんは命をねらわれても、「全ての子どもに教育を」と負けずに発言を続けています。

マララさん、素晴らしいですね。


そして、このマララさんの話を聞くたびに、私は以前読んだ渡辺淳一氏が書いた『花埋ずみ(はなうずみ)』に出てくる、主人公を思い出します。

学問好きの娘は家門の恥という風潮の根強かった明治初期。遠くけわしい医学の道を志す一人の女性。日本最初の女医こそ、この主人公の荻野吟子です。

彼女は、夫からうつされた病気を、異性に診察される屈辱に耐えかねて、同じ苦しみにあえぐ女性を救うべき、様々の偏見と障害を乗り越えて医師の資格を得ました。

下谷練塀町にある好寿院の院長が入学を許可したとはいえ、初日から吟子には驚くことばかりでした。

ここからは、抜粋です。

突然、ざんばら髪の色の浅黒い大男が教壇に立ったかと思うと拳を振り上げて喋り始めた。

「諸君、宮内省侍医、医学士高階経徳経営する、この光栄ある好寿院に、女性医学生何のなにがしを迎えたことはまことに慚愧にたえない。今や医学道は地におち、女、子供の職業の具と化しつつある。女賢(さか)しゅうして家つぶし、今や医学をつぶさんとす、あに憂えざるべけんや」

 それと共に一斉に「わあ」という拍手が沸いた。
 続いてその横の大将髭の男が立った。

「諸君、我々は遂に今日ここに女学生を迎えるに至った。我々は婦女とともに医学を学ばねばならない。婦女と並んで講義を聞き、実験をするのである。すなわち、我々は婦女と同等に成り下がった。この責を何とするか」


 明治20年頃からは吟子のような手数を踏まなくても、各私立医学校では女子の聴講を許し始めたが、その頃でさえ入学者はせいぜい一、二名に過ぎなかった。医学校といっても殺伐な維新の名残が尾をひき、明治版暴力教室といった雰囲気があった。大方の女子は怖れおののき、神経衰弱になったりして中途退学し、相当意志の強い者か、図太い神経の持ち主でないかぎり、女性で長続きすることは出来なかった。

 こうして明治28年には当時、最も多く女性聴講生のいた済生学舎でさえ、相次ぐ風紀問題から終いには刑事問題にまで発展し、遂には女子学生全員に退学を強要する、といった結果まで招いたのである。 

 こうした女子医学生の苦しみは明治33年に吉岡弥生が女性専門の東京女医学校を創設するまで続いたわけだが、その20年前に、ただ一人で荒くれ男の中にとび込んだ吟子の苦しみが並大抵のものではなかったことがわかる。

     「花埋み 著 渡辺淳一」より



マララさんも、日本の子供達も頑張れるように、私たち大人もしっかりしなくてはいけませんね。

それでは、今日も一日頑張ります!




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