関東大震災と学問研究ー大学って何するところだろう
ドイツって、松明行列が伝統的にしょっちゅう行われています。今も。
黒い森の国って感じ。漫画の「エロイカより愛をこめて」で、松明行列の光景が描かれていて、へー!こんなことするんだと、高校時代にびっくりした。火と夜と人々の声、何だか古代のゲルマンの祭りを彷彿とさせます。(個人の感想です)
日独のリベラルの敗退は同時におきているし、学問の危機も起きている。
現代日本も、学術研究費が足りないし、政権による口出しでとんでもないことが繰り返されています。
後の祭りにしない為にどうすればいいのだろうか?
戦後に、久野収氏が悉く分析してくれていて、民衆=マスとファシズムの出逢いほど、恐ろしいものはない、としています。
右でも左でもなく、ファシズム、全体主義へと流れる大衆運動がナチスを育てて、日本でもわけのわからんことを起こし始めているのですねえ。ああ恐ろしい・・・・・
私は音大にしか行ったことがないので、西洋音楽の勉強しか専門にしていません。
楽譜っていう、言葉が介在しない世界を、これでもかこれでもか、と記号を突き詰めるので、
文脈とか意味とかいうものがなかったんですね。数学みたいなもんですね。
さて、数学も物理も哲学に通じるのだということを、滝川事件周辺の哲学を調べていたら知ってびっくりしました。
唯物論というやつです。ユークリッド幾何学とか、ピタゴラスの定理とか、パスカルの定理とかありましたね。
音楽って唯物論と関係ないのでほっとしています。このほっとしているのは、音=周波数の聞こえてくるもの以外のテキストに変換されないわけです。証明問題が苦手な私は、この和声の正当性を証明しろっていわれたらひっくり返ります。
和声は律なんですね。お経にも律があります。そう、CODE=律 洋語も漢字も意味が同じです。
和声も対位法もそうなんです。違う尺度や解釈をもとめる必要がない音楽、最高です。
こないだ、非常勤で行ってる学校で、バイオリンを高校生に鳴らしてもらいました。
調弦しながら、ああ美しい倍音がバイオリン本体の ℱの穴からあふれ出てくるのによいしれました。
あれは、周りにいるよりも弾いてる人に f の穴から噴き出してくる音が癒しシャワーを与えてくれて本当に気持ちがいいんです。高校音楽って、弦楽合奏が必修なんですが、やったことなくても無理やりやります。楽しいですよ。
弦楽器は技能習得に年数と、耳の良さが必用なので、短い音楽の時間に何か合奏するなんて無理ですが、
私も高校時代に、野球部の連中と、”四羽の小さい白鳥の踊り” を合奏しました。チェロ担当で、最初の方は、ブンブンと、ピチカートしてればいいので、誰でも1時間で担当できますが、展開部は難しいのです。ちなみに、ファゴットが吹いてるところを、チェロは弾きました。踊るのも面白いです。この出来てもできなくてもやるっていう精神が大事です。
舞台の映像
踊り方が親切にあがってました。本当に分かりやすい動画!!
まあ、今のはどうでもいい話です。
本論は古い話です。
コロナの頃だったんですが、混ジャパ騒動というのが、東京外語であって度肝を抜かれました。
なぜ、こんな雑なことが国立大で行われていたのか、解りません。
外国ルーツの帰国子女が多い学校ですが、もちろん、日本人も沢山います。
伊勢崎氏によれば
『彼らが生後今まで受けてきた社会差別の原体験を元に、これから更に強くなるだろう日本社会の隠れた差別構造を、国際比較しながら、学術的に炙り出すもの』だそうです。
でも、難民問題を見れば明らかに立地点がそもそも違いませんかね。
しかし、日本社会の差別構造は全く隠れてもいませんし、あからさまです。すでに非常に強固です。
『彼らが生後今まで受けてきた社会差別の原体験を元に、歴史的に存在した多くの日本的差別構造に基づき、これから更に強くなるだろう日本社会の人権のダブルスタンダード隠れた差別構造を、アジアルーツと非アジアルーツの体験を国際比較しながら、学術的に炙り出すもの」
だったらよかったのに。
まず日本が単一民族ではないよ、というのが浸透していないのがびっくりでした。
もう純ジャパとかって、そういう意味じゃないけど、ただそれを目にしたら、アイヌの人は?沖縄の人は?在日の人は?とか、もう色々考えてしまいます。そういう想像力は無いのでしょう。
これが、学祭とかJC(日本青年会議所)とかのイベントなら・・・さもありなんですが、外大というのが致命傷。
純とか混とかは、帰国子女界隈の狭い範囲のみで許容されていた言葉を、ドーンと出してしまったのが炎上の第一歩。
通用しない言葉を社会に放っちゃう経験・・・・若い時は誰でもあります。
親友のピアノ科の子は、前衛音楽に傾倒し作曲しまくって、担当教授にみせて雷をくらいました。
今なら、YOUTUBEで発表することができるのですが、狭い狭い音楽大学の世界では、打ちのめされることが多かったです。
でも、先生は厳しく教えてくれて、それがなければスコアを守ることができないのがクラシックです。
これは逸脱である、と判ってやるのと、解らないでやるので大きな差があります。
学術の世界ではこれが一番、大事なのではないかと思うところです。
先生はそれを教えて、教え子は発奮してそれを乗り越える何かを目指す。
その時に、狭い専門範囲でなくて広い目線からの現在位置を教えることがなければ不十分です。
だいたい、同じことを国外でローンチして通用するのかどうか?想像力の欠如です。
伊勢崎氏は公開している開催時の挨拶で、紛争を解決する法律の欠如、条約の批准が日本にないことで、ジェノサイドへの抑止や監視、平和が保たれない、国内でもしも関東大震災のような民族差別を理由とする虐殺が起きても処罰する法律がない危機感を、この混ジャパ・イベントで可視化したかったようです。
この非常に大きなテーマに関して、研究手法は的を絞れたのでしょうか?
外国人への見えざる(まるみえ)偏見を可視化する手法はアンケートとして適切だったのか?
どう考えても、量的調査には分母が足りませんから、聴き取りなどの質的調査をするほかないでしょう。
それとも、このアンケートで研究に必要な回答量が担保されるだろうという見通しだったんでしょうか?
大きすぎるテーマの中で、このアンケートは用をなしたか?
炎上アンケートとコピー文章は研究発表として知恵を尽くしていたのだろうか?
まさに、これってコピーレベルです。
テーマ設定はいいとして、手法はあくまで学生の研鑚に+になるのか?という視点が欠けていたのではないかと思います。最初のテーマは広すぎます。そこからに何に的を絞るのか、学生はできなかったのでしょうか。
学生を援護するなら、きちんと学術的に援護すべきではないでしょうか。
それはしていません。
どういう手法でやれば、その大きなテーマをカヴァーできて学部の研究として適切なものになったのか?
大人の言うことを真に受けた学生が運のつき。
自分で考えるよい教訓になったのではないでしょうか。
左翼界隈の人が何でも持ち上げるのには閉口します。
でも伊勢崎さんは、自分の責任、指導の足りなさを振り返ってはいないようですね。
学生側から抗議文章が出ているのにほっとします。
東京帝大法学部からの、京大瀧川事件へのシンパシーや抗議運動を振り返りまとめられた本があります。
他大のことだと思わず、学問の自由に立ち上がった学生、大量逮捕や弾圧で傷ついた若者、きっとその後には戦争に行かされたことでしょう。瀧川事件でも筋を通した人は沢山います。
学問って振り返りが一番大切だと思います。
そのまとめが下記のNOTEにありました。ケイン樹里安さんの執筆するブログです。
もやもやをまとめてくれたんです。変なことは変だと言いたいもんです。関東大震災の日に思いました。
学問研究の自由が奪われるのは、権力側からもそうですが、それは違うんじゃないか、という問いとそれへの誠実な応答がなければ、信頼を失うということが可視化されました。