ドラマ雑感とH・マンの『臣民』 | メメントCの世界

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ドラマ雑感とH・マンの『臣民』

他人の心の痛みは伝わり難い。

田中さんの報告とやらを読んで驚いた。なぜなら、原作者が心を砕いて作り上げた世界を、ある意味、「利用」はしても「尊重」はしていないから。自分たちがマスコミだから、大多数のセンスを代表しているのだと思っているのだろう、このガラパゴスな日本で。ジェンダーへの目線というのが、どうやらテレビ業界では疎まれるもののようで、それを疎む男性社会と、そこに同化することで仕事が成立する世界がそこに厳然としてあるからだろう。

モーニングアフターピルはドラマにそぐわないで、他のレイプだなんだ性的描写はOKだというのがテレビのスタンダードな基準なのだ。そして、かわいい制服に憧れて私立高校受験を考えるのが、うける設定だそうだ。

そういうことを並べられたら、原作者は苦労して書いたジェンダーに対する思いを否定されたと思うのではないだろうか。

 

 

 日本はダメだ、ということを言いたいというより、物言わぬ人形とか、奴隷根性を喜ぶ人たちがいるということだろう。

実際のところ、私はテレビを見ないのだ。母と父が見ている7時のニュースか、不思議な演歌特集を聴かされる以外には。

テレビを見ない層は、沢山いるとおもう。ネットには沢山の映像や情報が溢れているから。

でも、テレビというのは公けの器だと思うから、視聴者を裏切らないでほしいと願う。

 

 

つい最近だが、英語課題でもらったテキストが素晴らしかった。

映画Marriage Storyの離婚訴訟の女性弁護士の台詞。母親がダメ親父の様に生きることは決して容認されないのだ。

それは洋の東西を問わない。ネットフリックスで観られますよ。

 

 

 

People don’t accept mothers who drink too much wine and yells at their child and call him an asshole.

We can accept an imperfect dad. Let’s face it, the idea of a good father was only invented like 30 years ago.

Before that fathers were expected to be silent and absent and unreliable and selfish and we can all say we want them to be different, but on some basic level we accept them, we love them for their fallibilities.

But people absolutely don't accept those same failings in mothers.

 

 

 

五月は、週の3日近くを掛川の小学校で演劇ワークショップに費やした。

沢山の発見があった。

人が言葉を抜かして考えることは、いろんな障壁を取り払うし、理解が直球で飛んでくる。

そして、その小学校の裏あたりにある二宮金次郎の報徳社にある先生を訪ねた。

 

ハインリッヒ・マンの『臣下』を読みなさいと、掛川にいる間にドイツ文学の先生に言われた。

そこには、近代日本の民衆がドナチス台頭前のドイツ国民と同様に、臣下であることを喜び、決して市民になれなかった姿があるのだと、その先生は言っていた。それで分厚い本を開いたら、割とすぐにそれが見つかった。手品のように。実はそれは繰り返し描写されるから見つかりやすいのだろう。それがネトウヨの姿にそっくりなので噴き出してしまった。

 

『ディーデリヒは、誰ともわからぬ全体、この仮借ない、人間を侮蔑する、機械的な組織、これに自分が所属していることがうれしくて堪らなかった。権力、血も涙もない権力、自分は受け身でしかないけれど、ともかくこの権力に預かっている、それが誇らしく思われるような性分だった。

行進がブランデンブルグ門の下まできた。

皇帝が馬で通った。ビールを飲んだときよりももっと高承な、もっと素晴らしい陶酔が彼を爪立ちさせ、ついには宙に舞い上がらせた。帽子を高く振り回し、狂気のように感激して、われわれの高鳴る感情が及ぶかぎりの世界を飛び回りながら。勝利の進軍が行われた門の下を、馬上ゆたかに権力が進んでいる。

ああ、権力がわれらの頭上を歩く。俺たちはそのひずめに接吻しよう。

餓えも抵抗も嘲笑もものともせずに権力は歩みを進める。

権力に対して俺たちはどうすることもできぬ。われらはみな権力を愛しているからだ。

権力はわれらの血にやどっている。なぜなら、服従がこの血のなかにあるからだ。

われらは権力の一分子にすぎぬ。権力が吐き出したもののなかの微粒子に過ぎぬ。

ひとりひとりはゼロなのだ。さあ、われらは集団をくんで昇って行こう。官僚でもいい、教会でも学会でもいい、経済連合でも権力連合でもいい、円錐状に上へあがろう。てっぺんには、権力そのものが立っている。硬直し、目をランランと輝かせ、権力に生きるんだ。権力のわけまえにあずかるのだ。権力に縁のないやつは構うことはなくやっつけよう。たとえ権力につぶされることがあっても、われらは凱歌を奏しながら滅びよう。

なぜなら、そうやってこそ権力はわれらの愛情を是認してくれるのだから。』

 

小栗浩・訳

 

 

五月、各地を旅したが、そういう隷従する人ではない人々に沢山出会って話を聞いて、力をもらった。さあ、6月も頑張ろう。