めーもり~~~
めーもりーと言えば、あの曲が浮かびます。さあ、なんでしょう?物差しでしょうか?巻き尺でしょうか?
これは内輪の話です。
昨日、春劇場という私には全く縁が無くなった、浜松町の四季劇場に行ってきました。
古巣にいた最後の四年ほどは、もっぱら関西や福岡、東京に戻っても日生劇場に居たので、春劇場で仕事をしたことはないのです。
そこで、私が四季の音響部にいて、辞めるまでの12年半をお世話になった上司の偲ぶ会が行われました。
生前の人徳の所為か、関係業者や全国の劇場などから沢山の人が献花にかけつけていました。
音響って何をするのかそもそも分からないかもしれないので、そういう方は、私の共著「演劇に何ができるのか?」を
図書館で借りて読んでください。
とても過酷な仕事場でした。
照明は目に見えますが音は目にみえません。
それゆえどれほど微妙な音が出ていようと、ほとんどの人には違いが分かりませんが、
よいミュージカルはよい音で聞くことで感動は数倍にアップします。
四季にいたころ、海外のスタッフにこれでもかこれでもか、と良い音について言われましたので、
私も外人には絶対できない事を、沢山やって、どうだまいったか!!っということを仕事の生き甲斐にしていたことがあります。
でも、どの、どうだまいったか!!というオペレートをするにあたって、サウンドシステムや全体のコントロール、コンピューター制御のフローがきちんとできていなければ、それは実現しないのでした。
凄まじい量の機材を搬入し、電源をとって、コンソールをおいて各種のエフェクト関係の機材やら再生機器、モニターを設置して、ラジオマイクを準備し、巨大なスピーカーをスタッキングし、安全に配慮してケーブルを張り巡らして、チューニングに・・・・と気の遠くなるようなまるで戦争でもやっている感じの仕込みをしてそれからやっと音が出るんです。
私が音響業界に居たのは、20世紀と21世紀の境目。アナログからデジタルへと転換が止めようもなく、でもまだデジタルは完成品ではなかった頃です。
そういうわけで、とてもヘンテコな経験もしました。
長野オリンピックやら、海外出張やら、見えない妨害電波を追いかけたり、神戸震災、オウムのXデイ。
過剰の仕込みや機材を抱えて、いろんなミュージカルの本番のオペレーションをしておりました。
でも、阪神大震災以降、こんな電気をいっぱいつかって、上手くもない歌を拡声してどうなるんだ!という疑問が芽生え、
その職業を辞めたわけです。
春劇場で再会した後輩たちは、しっかりとおじさんになって、タテヨコに成長していました。
背が高くなった男子、横幅が増えた男子、ツルツルと色つやのよい男子・・・・
そして若者たちがたくさんいました。特に、女性のスタッフの多さには目を見張るばかりです。
何しろ、1989年の話なので、ジェンダー平等も何もかもない時代でした。
そして仕事場では、怒号が飛び交い、何かというと誰かが怒鳴ったり殴りあっていたように思います。
日生劇場の照明バトンのコードをバラシに近寄っただけで「姉ちゃん邪魔だ!!!」と怒鳴られて、逃げてきました。
そういう中で、コミュニケーションをとって共同作業でミュージカルを上演する裏方っていうのは、
不思議な人達だったと思いますし、気が付いたら私も、ギャオ―――っと後輩男子、女子に怒鳴りスピーカーによじ登る裏方になっていました。最も仲が良かった一年後輩の女性は、途中でフェリスでジェンダーを勉強するんだと職業を変え、今では外資系の医療関係の会社で働いています。ある意味、私と双璧を為す変人でもありましたが、唯一無二の音響の友です。
彼女も偲ぶ会に現れて、持ち前のひょうきんさと明るさを爆発させて、私たちを和ませてくれました。
ある意味、無事に生き残った私たちなんです。
身体や精神を壊し辞める人の方が多い現場です。
頑固で打たれ強く、自分の頑固さに勝てる人しか残りませんでした。
昨日、みんなで思い出を話し会った故人は、これまた頑固でしたが柔軟でした。
故人の最も徳の高かったところは、意外にも?真面目さと公正さでした。
いつでも人を公正に扱うことが難しい業界で、故人はとてもコミュニケーション能力が高く、常に部下にも公正に接する人でした。
色々な軋轢もあったのですが、素晴らしい初日を開けるためにベストを尽くすことを、当たり前なんだ、そのためにやっているのだ、という
真摯で真剣な仕事ぶりで、現場のオペレーター諸氏を支えていた人でした。
私も徹夜の音合わせで、こういう音ではないけれども、技術的にどうしていいか分からないという状態で発狂し、喧嘩しながらゲネプロ前の音合わせをした思い出が沢山あります。
そうなんです、20世紀は喧嘩ばっかりしてました。
そういう青春を送ったお陰で、私は大逆事件にも向かい合って来られたのかもしれません。
2008年に資料を集め始めてから2022年の今です。
そして、こんな裏方人生の苦労を解ってくれたのが、今のメメントメンバーです。
1989年に大町山荘に音響部合宿に行きました。私はまさか真面目に朝から晩まで音響について語り合って、更に夜は酒を飲みまくり、
朝も迎え酒を飲みながら、更に音響について話すなんて、全共闘まがいのことをするとは思わなかったのでした。書記係をした覚えがあります。間違えないで下さいね、大町山荘で、あさま山荘ではありません。
昨日、弔辞を泣きながら読んでいた上司は、一番喧嘩をした上司で、その人の唯一の好い所は愚直に誠実なところでした。
そんな風に離れた所から自分の20代から34歳までを過ごした劇団の人を眺めていました。
もう次に生きて会うことはないかもしれない、そういう方もいました。
故人の人徳が沢山の人を弔問に向かわせて、再びこうして合わせて語りあうことができたのだ、と感謝しました。
そして、私などが退団した後で入った若い男性が、故人と一緒に仕事をした18年の思い出を熱く熱く語っていました。
入団18年なら、若くもないのかもしれませんが、故人が昔から話していた事と色んなことが重なり、晩年によき若い理解者を得られたことは
とても幸運なことだったし、楽しく仕事をしていただろうなと目を細めました。
ずっとずっと働き続けて仕込に明け暮れていた金森さんはやっとゆっくり休んで、メリーポピンズでも聞いているでしょうか?
本当にありがとうございました。
最後に、OBOG現役の音響部員で写真撮影をしました。
無意識のうち、センターをとってしまう自分に後で反省しました。
最後の最期まで厚かましくてごめんなさい!!