明治百五十年異聞『太平洋食堂』『彼の僧の娘』パンフレットより2
2020年のパンフレットは、これまでの上演でお寄せ頂いた文章を再掲致しました。
以下、2013年パンフレットより
「待ってました!」 ・・・ 坂手 洋二
嶽本あゆ美さんは〈劇作家協会戯曲セミナー〉第一期生である。「待ってました!」とばかりに飛び込んでくださった。こうした「第一期」は、 積極性と意欲に満ちた、個性の強い人たちが集まりやすいものだ。確かにその同期生は、今やそれぞれのスタンスで演劇界で活躍している、傑物揃いである。なぜか女性が多い。その中にあって、頑固さ、一途さにおいて、嶽本さんは、群を抜いて目立っていたし、今もそうだろう。 彼女の前作『クララ』を読んで、この、なりふり構わぬ猪突猛進のヒロイン像は作者自身の情熱と重なると、しみじみ思った。こういう人をまわ
りは放っておかない。彼女は瞬く間に演劇集団・円『オリュウノオバ物語』の戯曲化を手掛け、幸先のよいスタートを切った。
嶽本さんの特徴は言うまでもなく、重量級の題材を相手にするところにある。歴史物が多く、現代物でも過去の出来事の積み重ねに立って いる、含蓄あるものが多い。資料も膨大、登場人物も数多い。歴史上の出来事・人物を描くゆえ、制約もある。そこにオリジナリティを発揮さ せるというのは、並大抵のことではない。しかも普通の作家なら敬遠しそうな「難物」を素材に選ぶのだ。
劇作家協会新人戯曲賞入選作『ダム』は、多くの審査員の激賞を受けながら、未だに上演されていない。珍しく現代を題材にしているが、 あまりにも「問題作」過ぎるのだ。同じ熊本・川辺川ダムに取材した拙作『帰還』は、劇団民藝さんで、大滝秀治さん主演という枠を得て、企 画が実現したが、昨今、確かにこうした題材で演劇をやろうという人は、少ない。劇作家協会としても、『ダム』が未上演なのは心苦しく、この たび「劇作家協会公開講座」のリーディングで、ようやく初めて舞台上で『ダム』の人物たちの台詞が発されることになった。
そして、嶽本さんが五年近く暖めてきた最新作『太平洋食堂』が、劇作家協会が提携する座高円寺〈劇作家協会プログラム〉が今年から始 めた「新しい劇作家シリーズ」のトップバッターとして登場する。〈劇作家協会戯曲セミナー〉の上級クラスである〈研修課〉の課題として、彼女 が改稿を重ねる過程につきあったが、とにかく自分が描こうとする対象のスケールを決して縮めようとしない欲望の深さ、細かなディティール を簡単に捨て去ろうとしない執着の強さには、時折り呆れるほどだった。たいへんなエネルギーと意固地さである。私はもうこれ以上「もっと整理した方がいい」と助言しても無駄だと思い、彼女が気の済むまで改稿を繰り返し、自分で飽きるか諦めるのを、待つばかりであった。
演出の藤井ごうさんは、一昨年から拙作『普天間』の演出を手掛けてくださって、同作品は今も国内を巡演している。若手と思っている人も 多いが、幾つもの現場をこなしてきた手練れだ。そして、ハートがある。藤井さんが、この手強い嶽本戯曲をどーんと受け止めてくれることで、 彼女はいろいろなことを諦める分量を可能な限り少なくしたまま、舞台上に『太平洋食堂』の世界を立ち上がらせるという「奇跡」に、立ち会う ことができるだろう。そしてその「奇跡」は、たんに幸運によってのみ呼び起こされるのでなく、彼女の描く歴史上の事実の数々と同じように、 関わる多くの人間の忍耐と受容の力によって実現するのだということを、さらに深く実感するだろう。そうした予言をしたくなるくらい、それほど に『太平洋食堂』は、多角的・重層的な野心作である。どうして彼女がそこまで頑固でなければならなかったのか、それが上演によって明ら かになるだろう。現場に立ち会うわけでなく見守るばかりだが、今度は私たちが「待ってました!」と大向こうから声をかけることになるはずだ。
坂手洋二(さかて ようじ)/1962年生まれ。
劇作家・演出家。前日本劇作家協会前会長。83年、〈燐光群〉旗揚げ。主な作品に『くじらの墓標』『天皇と接吻』『屋根裏』『だるまさんが ころんだ』など。近作『カウラの班長会議』では「捕虜」の生の希望を群衆劇の中に 活写した。近作に、『拝啓天皇陛下様 前略総理大臣殿』
志(こころざし)の広さ、高さを求めて=演劇「太平洋食堂」へのオマージュ= ・・・ 辻本 雄一
紀伊半島の先端に近い町新宮は、「陸の孤島」と言われ、交通の便はいまだに悪い。しかし、目前の熊野灘(太平洋)は、海運で直接江戸と結びつき、大海原の向こうはアメリカであった。進取の気性と開明性(かいめいせい)はどこよりも旺盛であった。
薩長の明治政府は、熊野川を和歌山県と三重県との県境として設定、河が潤(うるお)した 経済や文化の隆盛を分断する政策をとった。明治末期この町に、ドクトルさんと親しまれた、 アメリカ帰りの医師が居た。因習に囚(とら)われず先進的な思考を有して合理的な生活を志 した。父親代わりをした甥っ子と、「太平洋食堂」という西洋料理店を開業した。新しい書籍や雑誌を閲覧できるコーナーや、音楽に親しめる空間も作った。
「太平洋=Pacific」には、眼前の大海原とともに、平和を願いもとめる気持ちをも込めた。時は、日露戦争で国中が沸騰(ふっとう)していた。彼は社会主義思想を奉じたが、そこ に、キリスト者や仏教徒、若い人々らが集まり、非戦や平等の議論に花を咲かせた。「新宮は ソシアリズムと耶蘇(やそ)教と新思想との牢獄(ひとや)なるかも」と、「スバル」時代に石川啄木 (たくぼく)と並び称され、後に平出(ひらいで)修(しゅう)事務所に勤めた新宮出身の歌人和貝 夕(わがいゆう)潮(しお)は詠(よ)んでいる。
しかしながら、この町を襲った強権は、たちまちにこの町を言論風発する町から、「恐懼(きょう く)せる町」へと変貌(へんぼう)させた。「危険思想」の地域というレッテルを張った。それが、アジア・太平洋戦争後、自由で民主主義的な世が到来しても、すぐには払拭(ふっしょく)できず に、何かの後遺症のように、重しとして町の人々の心にのしかかっていた。それは、「喉(のど)に刺(さ)さったトゲ」とも譬えられてきた。
そのトゲを抜きたい、疲弊する地方にあって、何とか地域としての誇りを取り戻した い、そんな思いの人々が、熊野・新宮の地に「「大逆(たいぎゃく)事件(じけん)」の犠牲者を顕 彰する会」を立ち上げた。行政に働きかけて、市議会で犠牲者6人の名誉回復を実現させた。さらに、市内の小公園に「志(こころざし)を継(つ)ぐ」碑の建立をして、人権の尊さを確認し
合った。それらは、はるかに遠い明治の世、「太平洋食堂」に集(つど)った人々が抱いた希望や理想、人権の尊さ、それらを少しでも掬(すく)い上げようとする心意気(こころいき)でもあっ た。
いま、演劇「太平洋食堂」が上演されるのを寿(ことほ)ぎ、志の広さや高さを誇りとして求めつつ、遠く熊野の地から、ささやかなオマージュを捧(ささ)げたいと思う。
辻本 雄一(つじもと ゆういち) / 新宮市佐藤春夫記念館 館長。「大逆事件」の犠牲者を顕彰する会


