夏以降に書き始め、取材しながら進めてきた椿組「かくも碧き海~」まもなく脱稿です。
11月には富山の高志の国文学館と高岡市歴史博物館で行われていた堀田善衛生誕百周年のイベントにも取材に行きました。何よりも、伏木の海岸、雨晴海岸の晴天の絶景を観られて震えました。富山湾の景色は、どこにもない水平線の美しさや、海の向こうに聳え立って見える立山連峰の威容にも驚きました。前日には灰色の曇天の日本海も見られてラッキーでした。
今回の戯曲は「若き日の詩人たちの肖像」や加藤道夫全集などから、戦時中に慶応大学で出会い、演劇や文学の青春を謳歌した若者たちを登場人物に据えています。また、堀田が浅草花月のレビュウのトラでピアノを弾いていたことは、エッセイや小説に書かれていますが、そこでであった「あきれたぼういず」というギター漫談四人組との交流も、大きなトピックになっています。
構想を練っている間に、劇団四季でお世話になった浅利先生が亡くなりました。それで、いろいろと考えていたら、芥川比呂志氏や、加藤道夫氏が演劇論として書き残していることは、そのまま浅利先生が言ったことでもあります。それで、演劇人たちと堀田善衛とのかかわりについてのドラマが、戯曲の大きな流れとなりました。
治安維持法下、演劇人たちへの弾圧は、平和な今の時代には想像もつかないような過酷なものでした。治安維持法と言えば、小林多喜二を描いた井上ひさし作「組曲虐殺」が有名です。あれが決して過剰でもなんでもなく、あの小林多喜二の事件の後、演劇界もすさまじい弾圧によって、潰されていくのです。
当時の演劇界は、歌舞伎や少女歌劇などの商業演劇とは別の地平に立った、築地小劇場から分かれた劇団、労働運動の中から生まれたプロレタリアートの社会的要求、社会運動を目的とした劇団など、様々な特徴的な劇団がたくさんありました。しかし、治安維持法によって、国体の変革=天皇制などの支配の構造を変えようとすること、それを議論することは違法です。しかも、未遂でも共謀しただけで有罪、罰則は最高刑が死刑とされたのです。ですから劇団において社会主義的な色合いや、労働闘争などの題材を扱うこと自体が法律違反になりました。そして次々と劇団員が検挙、投獄される時代へと変わっていきました。感覚的に、社会問題を扱う漫才のウーマンラッシュアワーが、時事ネタを披露したりプロテストするたびに浴びる罵声と同じです。そして「よくやった」という声がかかるようになってしまった現代は刻一刻とそこへ近づいているようにおもいます。
ある検事が言っていたという「合法的な運動、平和運動なども前例なくいきなり検挙というのは、政府の要請ということは分かるが、法治国家として憲法との整合性をみると、どうかと思う」という証言もあるほど、法律は蔑ろにされ、無理矢理な運用が当たり前になっていきます。そして、少しでも社会的な問題に触れる表現、演劇、短歌、俳句、絵画、サークル活動、全部とっつかめて解散させられたのです。
社会においても、昭和大恐慌で経済が立ち行かなくなり、政治家の汚職や、決められない政治やら愚策が続き、国内の社会不安が増大するなか、満州事変がおこります。これは関東軍が独断専行で始めてしまい、当初は政治家や軍の上層部も反対したのだけれども、既成事実をつきつけられ、決して国民の喜びも、時代の閉塞を突破したという称賛に向かう中で、うやむやに現状追認し、次々と「事変」という名の戦線布告も国際法も無視した力の上での大陸侵略が進んでいきます。もう、この社会のうっ憤、もって行き場のない不満を一掃するのには、戦争しかなくなっていくのです。そして、2,26事件のあと、政治家、国会さえも役割をかなぐり捨てて、大政翼賛会へと、政党を解散して雪崩こんでいきます。今、全く理解ができないのですが、みんな、自主的に解散してしまうのです。
劇団も米英開戦前に、自主的に解散を強要されてしまいます。そして1941年12月8日の対米開戦の日を向かえます。その際に、大量検挙を行い、少しでも不平不満を言いそうな演劇人、村山友義、久保栄、滝沢修、千田是也なども検挙されてしまいました。そして起訴されて実刑をくらうのです。どうして理由もないのに起訴されるかというと、刑事訴訟の手続きを自白の証言だけで起訴できるようにハードルを下げるように、法律を改正したからです。そして、治安維持法にも、宣伝材など「赤い」とか社会とか笑ってしまうような理由でも罪を問える宣伝罪が加わっていくのです。「王様の耳はロバの耳」で、寺山修司が「国民に王様の耳がロバ耳だなんて連想させないように、ロバとかお風呂場とか、ロバ―トとか言うような名前は全て変えさせました」というセリフを書いていますが、その通りなんですね。
ああ、一気に書きましたが、バカじゃないの、と思うようなことも罰されていく時代に突入するのです。
そのような時代に、堀田善衛たち若者は、日本文学の古典やあらゆる文学に耽溺することで、徴兵までの時間を埋めようとする様子が小説に書かれています。
小説の中で、劇団プークの元団員のマドンナと呼ばれる女性が、恋人として登場します。彼女は、新劇の劇団に居たために、ビラ配りをしていて拘束されて、留置所で刑事により身心に回復不能なが虐待を受けます。そしてその運命の中においても、生活し恋をして生きています。すっくと立っている演劇人として今の私からみても凄いなあと感心するのです。そのほかに、早稲田大学で左翼演劇を「青年劇場」という名前で行っていた若者が現れます。着たきり雀の浴衣にすりへった下駄を履き、新劇を批判し左翼的なプロパガンダ演劇を命を賭してやっている若者です。何度も検挙されながらも、いつかはソヴィエト革命が世界に波及するのだ!!という理想に燃えているのです。しかし、今から見るとそのころに、社会主義、共産主義がきらきらと光っていること、熱狂やエネルギーで人々を捉えているのに、なんというかノスタルジーさえ感じてしまいます。
その青年劇場の彼と堀田善衛は、新協劇団での「火山灰地」久保栄・作の初演の舞台にエキストラとして出演しているのです。「部落祭り」の風船売りだったとエッセイに書き残されていて、風邪を引いた団員の替わりに堀田が出ていたことに、久保栄は気が付かなかった、とあります。何だかくすっと笑ってしまいます。
慶応大学のフランス文学学科で出会った、加藤道夫、芥川比呂志らは、「新演劇研究会」を作り、第一回目は蚕糸会館で「商船テナシチ号」をフランス語上演します。当時、既に学生演劇は検閲の許可がおりないため、その芝居はフランス語の学習発表会として上演されたのでした。堀田はそこに参加し、照明や音楽などをその後の築地小劇場での公演でも手伝っています。堀田の中ではそれはあくまで手伝いで、主体的な行動ではありませんが、戦争へ向かっていく流れの中、息の合う友人たちとの命を確かめ合う作業であったようです。
堀田善衛の生誕百年にあわせて更に貴重な文献が書籍化されました。それらも堀田の小説の理解を深めるのに助かりました。先月末には中野重治と堀田善衛の往復書簡集も発売されました。今まで知らなかった堀田の小説家として以外の活動にも詳しく触れていて、時代と格闘した堀田の潔さやら覚悟のすさまじさがよくわかります。
私の戯曲は、様々な要素を取り入れつつ、一つのフィクションのドラマとして立体化されます。これから、戯曲を磨き上げていきます。どうぞ公演にご来場くださって、若者たちが時代に抗い命をかけて表現をした時代をご覧ください。