行く年来る年2015 | メメントCの世界

メメントCの世界

演劇ユニット「メメントC」の活動・公演情報をお知らせしています。

行く年来る年2015

ついに大晦日です。皆様、年越しの準備は如何でしょうか?
振り返れば怒涛の7月の「太平洋食堂」以来、疲れて切って枯れていましたが、それでも「パターチャーラー」と「プロキュストの寝台」を書きました。
しばらく新作をミュージカル以外で書いてなかったので書くのは至福です。
しかし、パターでは本番で沖縄三線とパーカッションを担当する羽目になり、久々に力を使い果たしました。三線は今回、西山さんから提供されて何かできるかなあ?と弾きはじめたらはまってしまいました。それで、浄瑠璃やらこないだ亡くなった国本さんの浪花節をネットで見ながらコピーしていました。本来は絃をCFCで調弦するのを、CFBで調弦すると、素人でもコードのバリエーションが増えますし、実際すごく楽です。だからインチキ三線なんです。だんだん野望が出てきて、三味線を習ってみようかな~猫の皮もいいだろうなあと、物色中です。
そして、25年前の音大時代の日本邦楽概論のミドリ先生直伝のお囃子実習が役立ちました。何でもやっておくと無駄がない。ミドリ先生、ありがとうございました。

パターチャーラー演じるオルガンヴィトォー・不二稿京、西山水木





 お寺の本堂で灯に浮かび上がるご本尊の前で芝居するというのは、なかなかない体験でした。お寺の本堂は通常どこも音が良いので、セリフの声、効果音全てに全神経を集中して劇場とは違ったグルーブが芝居全体に出ていました。不思議ですね。パターチャーラーはインドのカースト制度をまたいで恋愛をした主人公の苦難の人生でした。女性が差別されケガレとされた理由が、マヌの法典にあります。このマヌの法典は全くもって、江戸時代の女大学なのです。「一つ、女は夫に従い父に従い、老いては息子に従うべし!一つ、女は独立に値しない。」今の日本の男尊女卑の大元はマヌによってもたらされたのです。

パターチャーラーでお世話になった明大前の正法寺
href="http://stat.ameba.jp/user_images/20151231/20/mementoc/1d/55/j/o0800080013527870857.jpg">


しかしそれでも年貢を納めきれなかった私です。
 「太平洋食堂」の制作、本番をやりながら、天保時代の経済について、あれこれ読んでおりました。また庄屋さんのお仕事、庄屋文書をあれこれ、読み下そうと必死でおりました。江戸時代は日本史をとらないとサラッと終わってしまうのです。240年、いろいろあったんだけど、家康、家光、吉信の後は、もう幕末ですね。そうじゃないけど、それだけ江戸時代は安定期で経済、文化、あれこれと変わったのですが、年貢だけは重く重く百姓の背中にのしかかっていました。

 豊臣秀吉とくれば、刀狩りに検地です。この人は敵を書き割りの城を建てて、たばかるばかりでなく、ものすごい能吏でした。凄まじい才能で、しかもアイデアを具体化して実行しきるのだからすごい。
 この検地というので土地台帳が全国規模で出来ました。マイナンバーというか、土地の登記簿を全国市立で作った画期的な税制の制度改革です。流石、天下統一するだけの実力です。
 江戸時代の中期まで、この太閤検地の台帳が年貢を決めるのにあたって基準となっていました。
 プロキュストの舞台は天保時代で、幕末の頃には、殿様は入れ替わるしお取潰しもあるしで、一つ村に3つの納税先があることもありましたと、天理大の先生にも教えていただきました。税金と行政権が一致しない村がたくさんありました。たとえば、大和地方だと本来の領主の津藩に4割、地元の寺社に2割、離れた柳川藩の飛び地が村の中にあったりです。税率もそれぞれ。庄屋はその年貢を台帳を基に割り付けて、まとめて集めて納税しておりましたので、まあ大変ですよ。村内の訴訟や共有財産管理も一手に引き受けて、自分で田圃を耕している暇なんかない。税理士と法律事務所と家庭裁判所を庄屋と村年寄(村役人)が任されているのです。
 五人組制で村内はお互いが監視しあい、人の出入りは全て領主に報告する義務があります。誰がどこかに行くのも、庄屋から手形をもらい、旅の予定を全て報せて予定通り帰ったか帰らないかも、文書にして奉行所に報告していました。ぶったまげる監視社会、それが旧き良き日本の江戸時代でした。

昔話によくある、旅人が一夜の宿を求めて現れても、決して見知らぬものを泊めてはいけなかったんです。村の法度に触れる事でした。法度というと、新選組御法度を思い出します。あのめちゃくちゃな御法度は、当時はそれほど異常ではなかったのかもしれません。
そんなわけで、村はずれにある爺さん婆さんの家が、旅人を受け入れたのはひょっとしたら、その家が村の統制を外れた墓守りなど境界の外の人間だった可能性があります。それは非人とまとめられる人々です。

 そういうわけでダメな庄屋の村がダメになるんです。
 決められた年貢を納められないなら、村方や庄屋が替わりに納める義務を負います。潰れ百姓と言って、年貢を払えないとか借金の方に土地も持ち物を差し押さえられてしまう破産者を出してしまうと庄屋にお咎めが来る。
 そして経済が豊か発展すると、貨幣制度が発達していきます。日本は銀本位制でした。年貢は石高といって米本位制が変わらないのに、実際は年貢の価値は大阪の米相場によって浮き沈みします。
 米が取れなくても山間部や寒冷地などで換金作物を作り、コメの石高を基準として年貢を納めます。だから、炭、綿作、たばこの歯、お茶、みかん、養蚕などをして市場で売った貨幣によって納税するか、直接納めたものを大名が大阪で売りさばいて貨幣に変えるという事になり、経済実態が米の石高制から離れていきます。
 太平洋食堂のあった新宮は昔は新宮藩でした。あそこでコメはほとんど取れません。しかし、紀州備長炭、木材など換金性が高い産物を海運を通じて江戸に出していたので、実際の石高よりも、もっともっと豊かな藩でした。その逆もあったでしょうね。
さらに自由主義経済的な物価の波が大名の経済を直撃していきます。

 固い話ばかりで恐縮ですが、今の日本って何?伝統って何?を考えると、江戸時代にさかのぼって、村社会と封建制が、この現代にも漂っているので身震いしているんどえす。
 そして、黒船来航以前、とっくに日本では資本主義経済が跋扈していました。
 天明の飢饉以後の幕府の経済政策の崩壊で、その後の政治改革ではもう塞ぐことの出来ない経済損失と、税制度の無理が一挙に表に出てきました。しかし、その失敗で民草がいくら餓死しようと、責任を負うことは稀でした。政治の責めを誰も負わない社会。封建制度によって守られた上の身分は、守られ続けるのです。
 え?あんまり今と変わりませんね。無責任体質の日本、江戸時代からですね。


 行政改革も行われましたが、根本改善はできませんでした。どうやっても、誰もこれ以上、税収は増やせない!!消費税アップ!より年貢を上げるというのは簡単ですが、もう飢饉が江戸時代の後半戦を襲います。宝暦、天明、天保の大飢饉。年貢を上げたら、みんな死んじゃいました。

 日本の農業は、化政年間には、もう開墾できるところは全部開発されて、これ以上の米の増産は無理!というところまで来ていました。それで、肥料による増産の途をつっぱしり始めます。これにはイワシ、ニシンなどの肴や油粕が使われました。肥料を買って作る農業は、やはり歪を産んでいきます。特に綿作は、一度で土を疲弊させます。ものすごい大量の肥料を必要とするのです。元来、里山の柴草や下草を山で刈って土に埋めて肥しにする循環農業は、もはや通用せず、この1800年代の最初には、農村はバランスを崩していました。金でイワシやニシンの肥料を買えなければ、綿が栽培できません。それで次の収穫を担保に金を借りるんです。先物取引です。それでも栽培に失敗すれば、土地や家屋を収奪されます。
 天保時代、すさまじい数の難民化した農民が大都市に逃げ込んできました。不法でも都会へ出れば、何か仕事にありつける、食って行かれると潰れ百姓は思ったのです。勿論、不法滞在なのでお咎めがあります。幕府の体制からはみ出た人々がどんどん増え続けました。しかし、飢饉になればもう餓死者続出。

 大晦日にこんな話は無粋ですが、旧き良き日本、村社会の日本は、江戸時代を学ぶことで根っこが良くわかります。日本史を必修化するなら、しっかりこの排他性と全体主義の江戸時代を教えて欲しいもんです。ああ、恐ろしき村社会!

 この続きは来年に!一年のお礼をこめて、皆様、よいお年を!

写真はPカンパニーの稽古場にて衣装合わせの図