谷間の女達と沖縄のおばあとシカゴのウォーショースキーとカッパちゃん | メメントCの世界

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谷間の女達と沖縄のおばあとシカゴのウォーショースキーとカッパちゃん


長い題名です。
内容が、羅列されています。
ちょっと、執筆の谷間に入って、他の仕事もあるけど、どうにもこうにも気持ち悪いのでブログを書きだし、昨日もあんまり寝てないから、今日こそ寝ないといけないけど、なんか気持ち悪いんです。
何がって?
沖縄のことをあんなに酷いことして、平気なのかと。

こないだ、劇団昴の上演で、チリの作家アリエル・ドーフマンの「谷間の女たち」を十年以上ぶりに見ました。
十年たって、変わったものは受け止め方でした。
昔は、地主や横暴な軍にあくまで屈服せず、誇りある死を孫と共に選ぶ、老女のソフィアに共感したんです。でも、今はできません。なぜなら、生きのびなくてはならないと強く思うからです。
 もちろん、ドーフマンの筆が素晴らしいから、こういう葛藤を持つわけで、文句を言うのは筋違い。

 けれど、この2015年の日本の沖縄では、チリの独裁政権みたいな事が起きています。人びとが、公権力の前に体を投げ出し、おばあ達までも抗っている。舞台の上での事と、同じように座りこむ人々がゲート前にはいる。それをネットで見てて、何にもしてない私がいる。
せめて、デモには行きます。けれども今行われている野蛮な仕打ちをやめさせる事は、してないんです。要するに、私も沖縄を虐げているわけです。

 安保は負けたけど、参院選で思い知らせてやるぞ!と息巻いていると、どうも、協力関係が宜しくないとテレビで言っている。アホや。兎に角、パワーバランスを崩さねばどうにもならないのに、おかしなことを言っている。本当に情けない政治家たち。連帯できないあちこちのアカデミズムも、教条主義な言い争いをあちこちでしている。

 その問題について、友達のカッパちゃんとモヤモヤするので電話で話した。
「公民権問題もさ、結局は内部崩壊したよね、マルコムXもキング牧師も、内側からのつぶし合いで死んだじゃない?人間にはさ、運動が盛り上がると必ず内部からそれを壊してやろうっていうゲノムがあるんだよ」
カッパちゃんもそう思っていたようです。そして二人とも、シカゴのウォーショースキーについて話した。ウォーショースキーが、「沈黙の時代に書くということ」を出版したころ、まだ小浜、いや、オバマはスターだった。本当にノーベル平和賞なんか貰って恥ずかしくないのかと思う。お爺さんは冷たい土の下で泣いているよ。

 カッパちゃんは、論理がすっきりしているので、モヤモヤはすっきりした。そして、選挙だ!と言うことで会話は終わったが、口や言葉だけで言う正義と、実行する正義はかなり違う。言葉で言う正義には時間の経過が反映されない。その文面の二次元の中の正義しか問題にしない。でも、正義の実行というのは単純じゃないし、ある範囲の中でなにが行われるか?判断は分かれる。劇団だって、芸術ばっかりやってりゃいいわけじゃなく、資金集めや宣伝やら、弁当の買いだしから、電源車の手配からもう本当に、あらゆることが派生する。

 正義とは何か?今の沖縄の状態はあきらかに今の時代が要求する正義ではない。人を虐げて、条約上正しいのだ、決まったことだと開き直っているのだ。
谷間の女達の主人公の老婆ソフィアは、チリの軍事クーデターによってどさくさまぎれに、粛正されてしまった谷間中の男達の死体を待っている。殺したなら、死体を返して弔いをさせろ、という老婆の無言の座り込みは、次第に、土地の有力者や軍人への圧力になっていく。力を持って居る側は、「あんな老婆、意味が無い」と言いながら、川原から動かないソフィアに次第に恐怖を抱いていく。なぜか?それは、不正義を行っているという認識が、心のどこかにあるからだ。
その恐怖はきっとカトリックのチリなら宗教上、起こるのかもしれない。どらまではしかしながら、その畏怖が恐怖を呼び、更なる虐殺を引き起こしていく。

 今の政府は畏怖を感じるだろうか?85歳の老婆がゲートに座りこんでいることに。我々には宗教がない。存在を問われるような畏怖が存在しない。哀しいかな、権力のトップに居る者には、正義は違うもので、老婆の事は痛くも痒くもないのかもしれない。しかし、きっと何者かが彼らに与えない恐怖を、市民である人々には与えているはずだ。私は恐ろしくて堪らない。

 私は時々、反知性主義について思い切り馬鹿にしたくなる。でも最近、実際には人々は大抵は合理的な正しさよりも、気分のよいものを正しいとする事が良くわかってきた。それに、学者でさえも、やはり言葉の上の事と実際の事を分けては考えられないのではないかとも思った。二次元の正義と、正義を行うことは、全く違うことだった。
こんなネット社会になると、私のような売文業者は言葉を吐き出せる。けれども人間というのは、言葉と行いが一つではない。そして両方から判断されるもので、今の沖縄などは慇懃無礼な言葉でとりつくろって、実際は苛烈な実力での攻撃をされている。
 人文という学問は、言葉にならない行動をどう測るのだろうか?私は良くわからない。
言説というものは、二次元にしか存在しない。それがどういう行動なのかは、学問では判断できないのだ。
 沖縄のおばあは言葉をそれほど持たない。けれどその行いは雄弁だ。
ソフィアは「男達を返してくれ」と繰り返し言う。それだけなのだと。そしてひたすら待ち続ける。

 「谷間の女達」のソフィアの正義は、死んだ男達の決着を付けること。拷問され、迫害されて死んだのなら死体を取り戻し、埋葬し、殺した相手を見つけること。それが最低の正義だった。それが為されないで、妥協して生き延びる事は、不正義の上に許容された人生であり、許しがたいことだった。だから、ソフィアは若い命・孫さえも犠牲にして、死んだ者の正義を貫く。死体の山を築いて。正義もまた恐ろしい。。

 私なら妥協する。そして生き延びる事を孫に選んでやりたい。そう考えられるのは、客席にいるから。あまりにも虐げられて正義のかけらも無しに生きてきたソフィアには、それが正されなければ、その次は無いのだが、俯瞰している客席では孫が死ぬことが理不尽すぎる。
「どうせ、その時殺されなくても、後で同じ事が起きる」そう思うかもしれないけど、少しでも生きている時間が伸びれば何かを変える可能性はあるのだ。

 だから誠之助があっさりと劇薬を若者に渡してしまった気持ちも、この頃、シミジミ分かってきた。

 シカゴの公民権運動に身を投じた若きウォーショースキーがよりどころにしたものはある種、神だったし、公正であるという善きサマリア人の生き方だ。私たちには何だろう?
問いかけながらも、ザワザワとした夜を過ごす。ああ、疲れた。

写真は、作家友達の金塚悦子さんの「葉子」仮チラシと12月にオルガンヴィトーの不二稿京さん、ダムでお世話になった西山水木さんと取り組む、「パターチャーラー」です。
詳細は後ほど