ガザとダム | メメントCの世界

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ガザとダム


只今、ダムの改稿真っ只中です。週末には熊本へ飛びます。熊本での「ダム」ドラマチック・リーディングの初稽古です。熊本で共催して下さる劇団ゼロソーの敏腕制作で看板女優の松岡優子さんのコーディネートで三日間熊本で走り続けます。
ダムを改稿といっても何か変える気は毛頭ないのですが、言葉足らずだったり思い込んでいた部分を微修正してます。でも、難しい~。8年前の自分と向き合いながら、いろいろなことを思い起こして意識のボトムへと潜水しています。結構、精神衛生に悪いですね。

ダムというドメスティックな事柄は掘れば掘るほど国家の強制性と公共という物事を考えることになります。本来、治水工事、都市計画は国が国土を平安にするために行われていたわけで、熊本市の土台は加藤清正によって天才的にデザインされています。早川倉庫のオーナー、早川さんに解説して頂いた熊本城下町の凄さにはびっくりたまげました。兎に角、何でもデカイ!熊本城はデカイ!公園もデカイ!熊本県立劇場は超デカイ!小ホールなのに1000人入る。これは清正が作ったわけではありませんので悪しからず。

河川の氾濫を防ぐためのダムが自然破壊につながるのは必然。ダムは本来、自然の猛威を止める為に作られているわけで、毒と同じでうまく使えば薬でやりすぎたら死ぬというわけです。では、その川辺川ダムが何の為に作られようとしたかというと、変転紆余曲折です。まず治水、それから農業用水の確保、電力、と多目的ダムは多目的ホール位使いにくいわけですね。全国津々浦々にある多目的な公共ホールは、演劇をやるにはデカイ、ミュージカルもやるかもしれないし、発表会、カラオケ大会、歌手のコンサート、クラシックもたまにはできるようなホールってどんなんだ?ってことです。

治水に使うダムの原理は単純です。でもそこに発電用途が入ると、常に一定の水位を保たねばならない、ということは想定外の雨量がゲリラ的にあったら、貯水量が予めキープされちゃってるわけで、本来の能力の半分以下のキャパシティになってしまう。だから、ダムの上流はダムが出来ると洪水に見舞われやすくなります。それでも水がダムの限界一杯になると今度は放水せねばダムが持たないから、豪雨でも放水となる。最初からどのくらいの大きさのダムを造れば良いかは百年に一度の大雨でもOKという試算をするけれども、たくさん想定外が起る。良かれと思って治水をしていることが、流域全体にとって良いかというとそうでもない。おまけに、50年くらいでダムには土砂が積もって貯水量そのものが半減する。パソコンのバッテリーと同じで、そうなったら買い替えですよな。パソコンは悔しい!と思いながら買い替えることができますが、はて?ダムは?川辺川の近くの荒瀬川ダムの撤去がどうなるか、もっと報道してほしいですね。それにしても新聞は、どうしてどうでもいい事を報道して大事なことを地味にしか報道しないのか?

ダムの写真を見ているとイスラエルとパレスチナを隔てているウォールを思わずにはいらない。ガザ地区を覆う高さ8メートルのコンクリートの分離壁。それでパレスチナの勢力範囲をすっかり囲んでイスラエルはパレスチナを隔離した。自爆テロの防止のためだと言いつつ、不正に取得したイスラエルの入植地(昔の満蒙開拓団みたいなもの)を固定化する壁。そして古くから住んでいた人の土地を跨ぎ経済や人の行き来を遮断する壁。ディスコミュニケーションの最たるもの。イスラエルは安全になっただろうか?幸せになっただろうか?イスラエルを代表する小説家のアモス・オズの「ブラック・ボックス」にはユダヤ社会の中での差別を描いている。そこにはパレスチナの人々は描かれない。ただ、朝晩に聞こえてくるアザーンの声のみが、異民族の坩堝であるエルサレムを表している。隣り合いギリギリの共存が1987年に書かれた小説にはある。そして台頭する極右なシオニズムの脅威も。

徐々に私達も、日本とイスラエルと大差ない事に気づいている。防衛力を増し、武器を輸出し、原発プラントを世界に売りさばき、国内の被災地を置き去りにする。被災地には見えない壁が建てられている。ガザの人々は封鎖によってミサイルからの逃げ場がない。それさえも、分かろうとしない人がいる。分離壁が出来てから生まれたガザの子供は世界をどう思っているのか。ところで春樹さん、あの卵はどうなった?
被災地の人々は、移住することを暗黙のうちに見えない壁で遮られている。移住した母子を非難する。異論を抑え込んで故郷を守ろうというスローガンは、全体主義の最たるものではないだろうか?汚染を隠し処理する能力さえ失いつつあるこの国には、見えないウォールが林立している。川辺川や八場では半世紀に渡ってダムに翻弄され故郷を奪われ、それでもまだダムは出来ない。奪われた時間と故郷、国内の痛みを分かち合うことが難しい。経済成長や公共という名の破壊によって私達人間は何を求めているのだろうか。
 旧約聖書の神々は容赦が無く徹底的に破壊する。それはある意味、人間の姿そのものに思えてくる。猛暑の中でこの夏、既に戦時下の匂いがあちこちでする。

これがウナギの匂いなら歓迎だけど。匂いだけの夏。7歳のころ、ウナギを川で20匹捕ったという近所のおじさんと、ウナギを捌いて捌いて白焼きにした。ヌルヌルだった。あの日に還りたい。ああ、暑い。