バス停と停電 ・・・ 嶽本 あゆ美
昨夜、川崎・横浜方面は落雷による停電で20時以降、真っ暗でした。昔は(30年前)はよく停電しましたが、最近はよほどの事がないと停電しませんね。心に残る停電は数々あります。小学生の夏休み、母方の実家の田舎では夕立と共に必ず訪れる停電を、大勢の従兄達とキャッキャと喜んでおりました。仏壇の蝋燭がフワリと陰影を作って伸び縮みし、窓ガラス(サッシではない)が震え、鉄槌のように降りる稲光は、「必ずお前を見ているぞ」的な警告を発していたように思います。子供心にピカッ!からドカーンまでの秒数を数えながら、脅威が段々遠のくまで、じっと祖母の傍にいた思い出が、今もありありと浮かんで来ます。
次は、やはり仕事がらみ。電源を確保できなければ仕事ができない状況下、ほとんどの働く人々にとって、停電はうむを言わせぬ強制終了に近いですね。ちょっと前ならそれで責任を放棄できるはずが、世の中が便利になると、自家発電だの無停電電源だの、根本的には屁の突っ張りにもならないような、「転ばぬ先の杖」を現場が用意させられるので堪りません。自転車でも漕いで電源を確保する緊急システムを作ってはどうか?と真剣に考えた時期もありますが・・・・諦め、という概念を受け入れるようになれるまで人間は愚かな事を考え続けるものです。「停電したら諦めよう」それが法律になってくれれば、どんなに楽でしょうか。病院関係はそんなことは受け入れられないでしょうけど・・・人の生死に無関係な仕事では、サーバーがダウンしようと何だろうと、受け入れるべきじゃないでしょうかね。FBを覗かない夜は、静かな夜でもあります。私は雷が「諦めろ。諦めろ」と鳴っているようにしか聞こえません。
もう一つ、インド系の作家、ジュンパ・ラヒリの短編小説「停電の夜に」は非常に切ないです。あまり繰り返し読みたい感じではありません。離婚の危機にある夫婦が停電の夜に久々に会話するのですが、死産で生まれた赤ん坊の性別を知っていた夫と、知らなかった妻の会話が出てきます。どっちだっていいと思うのですが、性別を知るまでは「赤ん坊」という抽象だったものが、知ってより身の痛みを感じた妻が泣いている描写が苦しい話です。そんな事、別れるからってよく言えるよな、とも初読の時は思いましたが、今は少し感じ方が変わりました。諦め、を少し分かるようになったからでしょうか。
昨日は「バス停」の稽古日でした。調子がのってきた井出さんと立花さんが、あれやこれやと試しています。別役実の「バス停のある風景」は不思議な話で、どうやって演じていいのか、どういうことなのか模索しながら年明けから勉強してきました。二人の会話を聞きながら、自分の作品の事を考えていた私です。チラシにあります通り、「スリーピース」という中編です。今回、初めてのメメント三人での共演となります。稽古が怖いなあ・・・いや、これは相方が怖いのではなく、自分が怖いのですよ。悪しからず。ゴールデンウィーク明けから本格的に稽古も動き出します。三人の女性作家の競演、お楽しみに。