【報道と現実のずれ】 | ♡meme_gon.♡のblog

【報道と現実のずれ】



【報道と現実のずれ】

報道の人たちが「欲しい絵だけ撮っていく」という話は、昔からあった。取材の人たちが現場に来て、当事者に話を聞いていったりはするのだけれど、現状を見ようとするのではなくて、聞きたいような答えだけを聞こうとし、見たいものだけを見て、欲しい絵を写真に撮って帰っていく、というのだ。それで、取材に応じた人たちが、「こんなことは言っていないのに」と嘆くというようなことは、けっこうよく聞くような話だ。

私自身、著作のことで2回くらいインタビューを受けたことがあるのだけれど、まったく言った通りに書かれていたことはむしろまれな方で、だいたいどこかしら、言ったことが違っていたり、違う解釈をされていたりした。ときには、いったいどうしたらあのインタビューから、こんな記事ができるのかと、驚くしかないような記事ができあがってくることもある。そうした経験をすると、ジャーナリストというのは、実は、現実を忠実に伝える人たちなのではなくて、よさそうなことを創作する人たちなのだなと思ってしまうくらいだ。

わざわざ現場に出向いても、最初から頭の中にあったようなことしか報道しないなら、CGで画像をこしらえて話を創作したとしても、同じようなことなのかもしれない。災害だとか事故だとかの画像では、実際そういう風に作っていると思えるようなものがたくさんある。そうしたものは、まったく嘘だったりもするけれど、まったくの嘘ではないけれど、事実が歪曲してあったりして、いずれにしても、まったくの現実でもないというようなものだ。

911のときには、旅客機が鉄筋コンクリートの高層ビルに飲み込まれるように消えていく画像を見ても、ほとんど誰も疑う人はいなかった。ビルに激突しているのに、翼がもげもせず、まるで建物がゼリーでできているかのように、機体の全体が飲み込まれていったのだ。今だったら、あんな映像が出たら、すぐにSNSであれは作られた画像だという情報が出回って、翌日には世界中に広まっていることだろう。

911の当時も、建築関係の人たちは、あの映像を見て、すぐにおかしいと思ったそうだ。鉄筋コンクリートの構造を知っていたら、飛行機があんな風に鉄骨構造を翼で切り裂きながら突っ込んでいくことができるわけがないとわかるし、建物の崩れ方は、解体作業でダイナマイトを使うときとまったく同じ崩れ方だった。それで、あれはおかしいと発言した人もいたけれど、そうした発言はすぐに消されてしまったということだった。

専門家でない人たちには、自然な現実の画像のように思えても、専門家から見たら、これは絶対あり得ないということは、たくさんある。4年前にコロナ騒ぎが始まったときは、免疫学者の人たちが、こんなはずはないとすぐに発言していたけれど、情報は消され、動画も削除され、嘘つき呼ばわりされた。それを見てきて、多くの人は、本当にメディアが嘘をつくのだということを知ることになったのだ。しかし、同様なことは、SARSのときにも、鳥インフルエンザのときにもあったそうだ。いつも免疫学者たちが、これはおかしいと言い、そのたびに情報が消されていったのだと。

報道された情報がおかしいという話は、専門家が見て、これはあり得ない、と思うことから始まっていく。そのときには、誰が何の目的で、何をどう変えているのかはわからないにしても、とにかく何かが違う、ということをだ。その手がかりから探っていった結果、恐るべき事実が見えてきたりもする。こうしたことも、コロナのときに、私たちはリアルタイムで経験していった。

今回の能登の地震の報道についても、最初からおかしなことがたくさんあった。輪島の朝市の一帯が200棟も焼失する火災が起きたというのだけれど、その画像が、何だかまるで空爆にでも遭ったかのようにペシャンコになって何なのかの判別もつかないような瓦礫が一面に散らばっているだけなのだ。一体火事でこんなに完全に燃え尽きるものなのだろうか? 火事というより、空爆の跡でも見るようだ。ところで、そこから500メートル離れた神社で、炊き出しをやっている画像が出ていたけれど、その背景には倒壊した家も焼けた家も映っていなかった。集まってきている人たちも、焼け出された人とは思えないような、きれいな服装をしていて、若い人が多かった。

翌日には、火が消えて焼け跡になっている光景が報道されていたけれど、そこには救助隊の人たちの姿は映っていなかった。4日になって、輪島の手前にある門前町の被災者を取材している映像が出ていたけれど、そこでは高齢者ばかりがいて、持ち寄りの物で避難所を作っていて、まだ救援の人たちも誰も来ていないと言っていた。しかし、その前日には、そのさらに奥にある輪島で炊き出しをしている映像が出ていて、火災もすっかり鎮火して瓦礫だけがある光景が報道されていたのだ。

こうしたことも、専門家の人たちが見たら、おかしいのがはっきりとわかるのかもしれない。建物や火災について専門的に知っている人ならば、こんなことは絶対にあり得ないというようなことがあるのかもしれない。911の画像では、多くの人は「何かが不自然な感じがする」くらいの感覚しか持たなかったとしても、建築関係の人が見たら、はっきりとこれはあり得ない、とわかるようにだ。

こうした画像が作られたものだとするならば、事前から用意されていたということになる。つまり、たまたま起こったことなのではなくて、計画されていたということだ。だとすると、そこには大きな闇が関わっているということになる。

この頃では、AIで現実そのものの映像を作ることも容易にできてしまったりする。コンピュータゲームで、リアルな戦闘の映像をシミュレーションしていたりするし、建物や街の映像を、爆破したり、火事にしたりといったことも、ヴァーチャルリアリティに近い形で作り出せたりするのだと思う。そしてそれを、3Dでいろいろな角度から見たりすることもできるはずだ。

ところで、どうも何かが不自然だと思える画像がいくつも出てきたあとで、門前町の被災者の映像を見たときには、ちょっと見てすぐに、これは現実だとはっきりとわかった。何がどうだからという理屈ではなくて、見たらすぐに、これは現実だとわかった。いったい何がどう違うから、これは現実だとわかったのだろう? それで思ったのは、不自然だと思える画像は、完璧すぎるということだった。つまり、報道側が「欲しい絵」そのままなのだ。そこからのズレがまったくない。すべてが計算された通り、といった風だ。

だけど、現実というのは、想像したようなことからは、つねにズレていく要素がある。そこに、意外性や驚きがある。それこそは、生きた現実というものの生々しさであり、多様性なのだ。しかし、不自然だと感じる画像には、そうしたものがまったくない。

門前町の被災者のおばさんは、食糧はどうしているのかと聞かれて、「お正月だから、ご馳走ならいくらでもあるのよ」と笑っていた。それを見て、なるほど、と思うものがあった。そして、そんなことでも喜びながら、皆で励まし合って乗り越えていこうとしているのだなという感動を感じた。まさにそこが、作られたらしい不自然な映像とは決定的に違うところなのだ。現実には、つねに予想したことからずれるものがある。なるほどそうなのだなと納得するものがある。それが生きた新鮮さであり、発見なのだ。だけど、作られたような映像には、そうしたものがまったくない。

それは、コロナのときに、感染者がこの先どれだけ増えるとか、感染したらどうなるとかを計算して予測していたのと、似ているようだ。人間の抵抗力とか、反応の多様性というものが、まったく存在しないかのように扱われていた。人間というものは、ただパッシブに、接触したら感染し、病気になるかのようにだ。しかし、生きている人間や、生きた自然の現実には、受けたインパクトに対して、それぞれに抵抗し、身を守る力がある。そして、その多様性こそは、生きた現実の姿だし、そこにはつねに意外性がある。

エキストラを使って演じさせるにしても、CGで合成するにしても、「欲しい絵」を作ろうとすると、そうした現実の意外性が入ってこないのだ。さらに言うならば、作った人の想像を決して出ていない。被災者というものは暗い顔をしているものだとか、被害の悲惨さを訴えているものだとか、苦しさを嘆いているものだとか、そういうありきたりのイメージで「欲しい絵」を作ろうとするから、エキストラも皆同じような表情をして、そこに映っているだけだ。

しかし、生きた人間がある特別な体験をしたとき、その表情、その身体からは、その体験の重さが感じられるものだ。だから、大したことを言っていなくても、何かハッとするようなものがある。それこそは、生きることの輝きのようなものだと言ってもいい。

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輪島門前町の被災者。お正月だからご馳走ならいくらでもある、と笑う。