【知の封じ込めによる支配】 | ♡meme_gon.♡のblog

【知の封じ込めによる支配】



【知の封じ込めによる支配】

真実が支配権力によって弾圧されるのは、中世ヨーロッパのキリスト教社会だけのことではなく、どうやらつねにつきまとっていたことらしい。支配権力は、上下のあるピラミッド型の構造を作ろうとし、富や権力を独占しようとする。しかし、世界も宇宙もそのような構造をしてはいないのだと思う。ピラミッド型の権力構造は、そもそも世界の真実に合っていないのだ。だから、支配者たちは、つねに真実を隠し、弾圧しようとするのだと思う。

ガリレオが地動説を唱えたときに、キリスト教権力が弾圧しようとしたのは、世界に上下があるという幻想を壊してしまうからだった。世界に上下があり、神が人間の上にあるから、教会は人々の上に支配力を持つことができるというのが、彼らが植えつけたかった世界観なのだ。ところが、宇宙には上も下もない。昼間は太陽のある方向が上だけれど、夜は太陽の反対側の方向が上だ。上とはつまり、地球から離れているということにすぎない。

近代になり、科学が宗教に取って代わり、真実はすべての人のためのものになったはずだった。科学とは、どこでも誰でも検証することができるものであり、どこでも誰でも同じ結果が出るものを、真実とする。この原理でいくならば、真実はすべての人が検証でき、もし言われている理論と違う場合には、誰でも異議を唱えることができるということになる。そしてその場合、理論は再検証されなければならないということになる。

しかし、実のところは、科学がかつての宗教支配に入れ替わっただけのことだったということが、この3年でよくわかった。科学的真実なるものもまた、支配者の都合でどうにでもなるようなものだったのだ。そして、支配者の望む真実に異議を唱える科学者は、左遷されることになり、精神病者扱いされたり逮捕されたりさえした。ガリレオの時代と何ら変わってはいなかったのだ。

ガリレオの地動説は、ピラミッド型の支配構造が宇宙の真理と合致しているものだという幻想を壊してしまうから、弾圧されたのだけれど、今起こっていることも、それと同じだ。ピラミッド型の世界観に反するものは、迷信だとか非科学的だとか言われることになる。あるいは単に、重要でないとして、教えられないようになり、研究もされないようにしていたりする。かくして、医学校でも免疫システムについては教えられなくなり、胸腺や虫垂、脾臓などの免疫システムにとって重要な器官は、機能がはっきりしないので重要ではないとされたままだ。本当は私たち誰もが自分を守る力を内に持っており、そこには完璧な秩序があるということを、支配者たちは隠しておきたいのだ。

生物は生存競争の原理で進化していくという理論は、資本主義経済が支配するイギリスだったから生まれたのだという話がある。生物学も、どこをどう切り取って解釈するかで、異なる世界が見えてきたりするのだと思う。生存競争が進化にとって重要なものだとする説が真実として取り入れられたのは、大きな資本家が他の企業を淘汰していき、資本を持たない人々を搾取していくのを正当化できるからだった。

その一方で、資本主義的な競争社会ではなかった東欧やソ連では、生物の共生関係についての研究が進んでいたそうだ。生存競争と見えるのは、実は表面的なことにすぎなくて、生物は全体として、循環するバランスを保つようにできている。実際、弱い種が必ずしも生存競争に負けるという事実もないらしい。食べる方が強くて、食べられる方が弱いというようなことでさえない。ありとある生物は、互いにその多様性を保つようにできており、そして多様性こそは、全体として強靭なバランスを作り上げているものなのだ。

多様性や多極性こそが、容易に壊れないバランスと調和とを作り出しているという事実を、支配者たちは隠しておきたいのだと思う。それを隠すことによって、安定した秩序のためには、強い支配が必要だと思わせたいのだ。だから、健康を保つために除菌をするべきだと言っているけれど、本当は多様な菌を持っている方が、容易には壊れないバランスができ、感染症にはかかりにくくなる。

多様性、多極性こそは、自然の法則なのかもしれない。何でも放っておけば、自然と多様性ができていき、多極的なバランスが生まれていく。弱い種も強い種も、すべてが共生して、大きな調和のある世界が自ずと生まれていくのだ。自然環境にしても、私たちの身体にしても。そしておそらくは、経済や社会についても、同じことが言えるのではないかと思う。

自然環境では、強くなりすぎ、繁殖しすぎた種は、自ずと淘汰していく。経済では、生産性が上がれば、それだけ富は拡散していくので、独占することができなくなっていく。今の世界の状況は、生産性が上がったのにもかかわらず、何とか独占しようとして、ありとある手段で人々の力を奪おうとしているといったところだ。それで、人々が支配に依存するしかない無力な存在だと何とか思い込ませようとしているのだと思う。

テンセグリティtensegrityという建築デザインについて、私はこの頃知ることになったのだけれど、これも力学的な構造というものの概念をすっかり変えてしまうようなものだった。建築物といったら、レンガを積み上げていくとか、柱を建ててそれに打ちつけていくとかして、固定した構造を持っているから強いのだと思っていたけれど、テンセグリティは、柱も梁も宙に浮いているような具合に、ワイヤーで繋げられており、どれも接触していないのに、非常に強いのだという。固定した構造を持っていないために、ショックを全体的に吸収することができ、だからこそ安定しているというのだ。

ところで、こうした構造は、実は私たちの身体の中にもある。私たちの骨格や関節は、実はすべてこのテンセグリティの構造でできていたのだ。どの骨、どの関節をとってもみても、筋膜がテンセグリティのワイヤーのように骨と骨とを繋いでおり、まるで宙に浮いたようになっている。こうした構造だからこそ、私たちの身体はあらゆる物理的ショックを全体として吸収することができ、容易には折れたり壊れたりしないようになっている。

この事実は、構造には中心があるものだという概念をすっかり変えてしまう。全体を支えている中心というものがあるわけではないのだ。どれが要だというものでもない。全体が多極的なネットワークをなしていて、だから柔軟で強く、安定した構造ができている。

このテンセグリティにしても生物の共生論にしても免疫学にしても、これはどこでも誰でも観察することができ、検証することができ、利用することができる科学的事実だと言える。波動理論や意識エネルギーなども、誰でもどこでも観察することができ、検証することができるという意味では、やはりそうだし、フリーエネルギーだってあるいはそうなのかもしれない。そうしたものは、ピラミッド型の支配構造が世界の法則であるというようなイメージを壊してしまうのだ。だから、支配者たちは何とかして隠しておこうとする。

それで、波動や意識エネルギーなどは非科学的だとか存在しないとかいうのだけれど、そうではなく、神秘化することによって封じ込めていることもある。非常に深遠な叡智だから、普通の人には理解できないとか、誰でも使うことができると思うなどとんでもないとか、そういうことを言って、高額なセミナーに通わせたりしている。そこで、わかりにくい難解な言葉で、自分でもよくわかっていないことを延々とレクチャーしていたり、そういうことが理解できないと、使うことができないみたいに思わせていたりする。

多くのものは、理論で理解しようとするよりも、効果を経験した方が早い。グラヴォボイ数列のセミナーといって、2時間以上も数列を示さないでレクチャーしていた講師がいたけれど、教え方がうまい人なら、まず数列のエネルギーを感じさせるところから始める。気功だって、理論から始めるよりも、気を感じることから始めた方が早い。しかし、独占することで支配力を保っていたい人たちは、誰にでも使えるという印象を与えないようにしたいのだと思う。わかりにくい言葉を使って、あまり筋も通っていないようなことを、深遠な叡智だから難解なのだといった風に話していたりする。

これは、自分がそのように習ったので、そういうものだと思っていることもあるけれど、そうやっていると人が何だかすごい価値のあることだと思い込んで、高額のセミナー料金を払うからやっているということもある。あるいは、封じ込めるために支配者がやらせていることもある。例の秘密結社のシンボルみたいなものが、入れ込んであったりして、変な呪いの入ったエネルギーを出していたりすることもある。鋭角のピラミッドのような形に目のようなものが入っていたりするシンボルはよく使われているけれど、あれは、人々はピラミッド型支配構造から出られないのだというようなサブリミナルなメッセージを送っている。叡智というものは、そもそも人々が支配されないような力を持っていることを教えるものなのに、それが不可能だというメッセージをサブリミナルに送っているのだ。それに引っかかると、まさにそういう現実を作り出してしまう。つまり、師匠に従って修行していれば、いつかは何かになれるかもしれないと、一向に力が使えないのに、せっせと高額セミナーに投資することになる。

しかし、真理というものは、本来シンプルなものなのだと思う。それは、真理というものは宇宙のあり方、自然のあり方、私たちの身体のあり方に則しているものだからで、だから、たとえ聞き慣れないような内容のことであっても、多くの人はどこか前から「知っていた」という感覚を持つのだ。それは、難解な言葉が「何だか深遠なことだ」という感覚を持たせるのと、正反対のことだと言える。

そうしたことを見ていくにつれ、世界は宇宙は、多極的なバランスでできているのだということを私はますます確信する。そして、その認識に開かれていくとき、私たちは「知っていた」という感覚を持ち、そのたびに本来の自分の姿に戻っていくのだ。