「夢の中へ」
「夢の中へ」
「探し物は何ですか? 見つけにくいものですか?」
探し物をする。そんな夢をよく見る。
現状に満足していない暗示。夢判断ならそうなのだろう。
現実はどうか。ルーチンワークになってきた現状を憂いているのか。
子どもの頃、デパートで母を見失ったことがある。鮮明に覚えている。泣きじゃくっていた。
母を見つけた時、母と姉は笑っていた。僕の不安をよそに笑っていた。多分不満だったのだと思う。泣くのをやめなかった。
母はいつも働いていたし、いつも入院していた。父は夜勤と出張が多く、親の愛情を探していた。
都会に出て、音沙汰のなくなった僕を、母はじっと待っていた。心の中では僕をずっと探していたのだろう。
ある意味、僕の母への仕返しだったのかもしれない。
僕は母が好きだった。そばにいるときはずっとしがみついていた。母も僕を愛していた。
しかし、経済社会と医療社会はそれを寸断した。
僕は今になって、経済社会と医療社会に背を向け、復讐を企んでいる。母と僕を引き離した社会に対して。
探し物は何ですか。
母が末期癌で緩和ケアに入った時、僕は仕事があると言って病院を離れた。
母は号泣していた。
最後まで母は、僕を探す人生だったのかもしれない。
確かに現状には不満だらけだ。活動を続けていても、まだまだ不満だらけだ。今のやり方ではダメだと思うし、世の中が変わってきたという実感は微塵もない。
誰のために僕は活動しているのだろうか。
化学物質を一切使わずに農業に取り組み、遺伝子組換えに反対して全国を行脚し、無添加のパン屋を開き、そして無肥料栽培を広げる活動に勤しむ。
だが、僕の心は一向に満たされない。
探し物は何ですか。
最近になってようやく分かってきたことがある。人は他人ために活動しても、自分の暮らしが整わないと、人生に満足することはないということ。
自己犠牲と言えば言葉は綺麗だ。しかし、結局、不満は心から消え去らない。
今、人生に不満を持つ人がこれを読んでいるのなら、ぜひ理解して欲しい。
貴方は自己犠牲という人生を歩んでいるのだということを。
貴方は人が良すぎるのだろう。自己を犠牲にしてでも、家族や友人や仕事仲間を守ろうとしている。
それはそれで美しいことだ。だから否定はしない。
しかし、そのままでは探し物はずっと見つからない。
まずは自分を優先するべきである。自分がやりたいこと、生き方をもう一度考え直して、もっと自分に素直に生きていくべきなのである。
僕の探しているものは、自分の人生である。
今、ようやくそれが分かった。
探し物は、夢の中にあるのではなく、目の前の現実の中にある。