黄河を登る鯉は龍と化すの鯉について | ◇マトメノフミ◇

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世も末(節目)となりました。死後に後悔する方が少しでも減るように、私なりにお手伝いをさせていただきます。

神之公園さんのブログ記事
 
魂を磨く里の行、他を救う世根(米)は身禄(369)なり
(2012/03/27)
 
言葉の妙Ⅲ、言葉が教える「タカラ」を殻にする狸神編
(2012/10/26)
 
魂の禊に水をもって洗う水行。黄泉国との決済。身削ぎ・身殺ぎの辛さを経ずに魂の汚れは完全には取れない。
(2016/04/19)
より。
 
 
私は山の行と里の行を聞かされて尋ねましたところ、山の行とは私(師匠)の様に瀧に打たれたり断食したり山を歩き回る荒行です。里の行とは社会の中で、人と人とを通じて揉まれていくことです。山の行は体力的には辛いですが、自分一人で他人との関係がありませんので、人としての逃げ場があります。しかし、里の行は人と人との関係なので精神的に逃げ場がなくなり、自殺に追い込まれたりします。
 
行者の世界では「里行」は軽く見られていますが、山の行でいくら神通力を得たとしてもその力には限界があります。しかし、里の行には限界というものがありません。山の行より里の行の方が遙かに辛く、自分の魂を磨けます。それが里の修業だと豊受様は言われたわけです。確かに、人と人の関係は逃げ場がないと、自殺まで追い込まれてしまいます。
 
だが、里行の場合、全員が全員。対人関係で自殺を考えるほど追い込まれるなどはありません。それは一部の方のみです。だが対人関係で苦しむのは魂の磨きの荒波で、サウンドペーパーで魂をゴシゴシ掛けられるように辛いのです。そは【みそぎ】と同じなのです。
 
一方、神通力者となって法力を得たとしても、その人間性に問題がある方がいくらでもおられます。悪なる行者さんもいられます。
 
お釈迦様が、バラモンの荒行から里行にされたのも人の世界の試練の行の大切さです。ですから、「人には良心と呼ばれる神が内在する」を悟られたのです。良心神は神々の世界からは知ることが出来ません。人間のみが保持しているのです。
 
瀧行は、一種の「禊ぎ」です。だが、瀧行をしていたら自分の魂が磨かれるかと言いますと、必ずしもそうではありません。瀧行も厳しい瀧場をこなすと「法力」的な霊力は備わって来ます。だが、それで魂が磨かれた人に成るのではなくて、自分の「法力」ばかりを誇る卑しい行者に成ってしまわれる方も多々あるのです。
 
山で修行することが神につながる道ではないのです。この社会の底辺で、人と人との関係で苦しむ「里の行」こそ。魂を磨く修業なのです。しかし、いくら里の行として汗水を流したとしても、自己勝手、我れよしの行動をしている方の魂は捻れています。汗水を流したから、その人は正しい人とはならないのです。
 
あちらのスピリチュアル。こちらのスピリチュアルと大金を払って講習を受けることが魂の修業ではないのです。逆に蛇霊で商売している霊能者の方だとそこに行くことで蛇霊をつけられてしまうがあります。こうしたことは里の行だけでは解らず、山の行を積んだ人の方が理解しています。それは修行の中では蛇霊の存在を知るからです。
 
そうした意味では「里の行」と「山の行」の両方積めればいいのですが、誰しも自分の生活を考えると難しくなります。その場合は「里の行」を中心にすればいいのです。
 
この社会の底辺で汗水垂らして、人と人との関係の軋轢の中で自分を磨いて、正しい信仰をしている人が、本物の魂磨きをされているのです。
 
私は掃除をしているオバチャンを低い人だと見ている様な人はダメだと言っています。霊界に帰れば、そのオバチャンが輝く程高い世界の神なのかも知れないのですよと説くのです。高い魂の持ち主ほど、この世では社会の底辺で暮らしていたりするのです。
 
そうした社会の底辺でコツコツ働いている人が表面的に信仰心の無い人に見えていても、信仰心が無いとは言えないのです。何故ならば、その人の魂は神社仏閣に祭られている御神霊よりも霊界では高い地位の魂であったりします。だとすれば、その魂が神社仏閣に祭られている御神霊を敬うとは限らないのです。まして現在の宗教界の有様は、信仰する気にならないわけです。ただ、氏神様には挨拶されていたりするのです。
 
 
私は「里」の行として、田の土で実る「米」の教えをしています。
実るほど頭の垂れる稲穂かな
 
他(田)を救い(鋤くい)て世根(米)となれ。
 
世には狸神(田と土の獣は言の裁きにより田と土から実る神の宝からタを抜いた殻の存在)や猫神(創造神の描くを間違え米として実る稲苗を理解しきれず裁かれた存在)が自分が創造神だと名乗っていますが、田で実る物の解釈が違っています。
 
 
これは身禄(369)の仕組みなのです。
 
そうしますと、自己の魂の汚れが消えて行き、魂の中の核が光を発した時、その光を通すことが出来る様になるのです。
 
いくら光だ光だと言っていたところで、自己の魂の核は良心神の太陽神「ラ」で説くことで解る様に、アマテラス大神の働きがあるのですから、自己の魂の中の光を隠していた天の岩戸を開けたならば、その光に自分の魂が苦しまなければならなくなるのです。