登龍門について | ◇マトメノフミ◇

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世も末(節目)となりました。死後に後悔する方が少しでも減るように、私なりにお手伝いをさせていただきます。

神之公園さんのブログ
五月五日は「粽」の節句なのに、何故に「桃の実」と説かれたのか?
(2013/07/18)
大本教はまな板の鯉 鯉をどう料理するかで一人一人が神への【登龍門】を開く
(2016/05/25)
より
 
私が住む家は、大本教の出口王仁三郎聖師さんが大正9年頃に某信徒さんに、神界の大事な土地なので教団に内密でその土地を死守してくださいと言われて、そこに家を建てられたがその子孫の代に私の母が古家として買った土地でした。私の師匠は、その土地は今の世に出ておられる神々ではなく、今の私達人類が知らない太古の神々が押し込められた土地で元の出雲屋敷地とも言われます。
また、幾人かの霊能者や神通力者の方からも、太古の神々が押し込められている神界の機密ゲートが存在する場所との指摘も受けて来た土地です。私はその霊達の浄霊をしているでした。
 
その私の家の台所の窓から、他の方が所有されている畑地を見ていましたところ、その土地に霊的に八角形の夢殿が建っているのです。夢殿?と見ていましたところ、その屋根の真ん中に豊受様が立っておられる。その中心点から天に向かって綱が伸びている。その夢殿の真ん中から綱で天に登ることが出来るなのです。
 
私達の魂は高次元界に進む為に「輪廻転生」をして来ています。三次元物質界のこの世にしがみつくことが目的ではなく、更に霊界の高次元世界に生きることが目的なのです。
三次元物質界の論理に支配されて、この世に執着を続けるのでは「輪廻転生」を免れることなど出来ません。
その意味では多くのスピの方達が、新しい時代に向かって三次元から五次元に移行しようとしている言われるのは間違ってはいなのです。ただ、何もしなくても自動的に五次元に行けるのであれば、誰も「警告」する必要がないのです。何故に警告する必要があるのか?。そこの問題なのです。
 
警告=言葉の敬いを告げる
 
考えてみてください。信仰する者達は神と呼ばれる存在を自分達よりも高次元の存在だと認識しています。私の最初の師匠は常々言っていました。この世でいくら辛くてもたかだか50年ほどの辛抱。この世の修業しだいでは神様ともなれます。どちらが得かなのか考える余地などありません。神様と成った方がいいのに決まっています。しかしその神に成るは、この世で遊んでいて成れる道ではないのです。
人で生きるより神と成って行く。その神と成る道を皆が進めば、今の世がどうなろうと、どうということもない問題なのです。それで私は人類滅亡などの悲観論から離れたわけです。未来は明るいなのです。問題は神と成れる道です。その道の模索に入ったしだいです。
 
これだけでは意味は掴めないと思います。そこに秘められている意味は「八角形」なのです。八角形の屋根を見ることなのです。六角形ではいけないのです。綱は天と繋がる霊子線です。
スピの方達は、何かと言えば「天使の羽根」だと言われます。それは【鳥違い(取り違い)】を起こしています。何故ならば、日本の神々でも仏教で説かれる如来・明王・菩薩さんでも、鳥の羽根など持っていないことからそれは解るでしょう。
 
鳥は【酉】でも、酉は尊(御言)で「言葉」のことだからです。



豊受様は、私にこうした映像を見せられたわけですが、では、豊受様の御代をしていている師匠に、こうしたことを告げられるかと言いますと、それはないのです。豊受様は私を「言葉の神」と呼ばれる者で、神々に言葉の教えをする者と告げられましたが、言葉を解読するかしないかは私自身の問題だからです。
 
次ぎに、豊受様が見せられた八角形の夢殿が出て来ましたところ、その中で「鯉」が泳いでいます。その途端、その鯉は「龍」と化して、その八角形の夢殿の真ん中から屋根を突き破って天にと走っていきました。
それ自体は中国の故事。【黄河を上る鯉は龍と化す】の【登竜門】の話です。下位に居た者が行政の中心部に登用されて行く道です。
 
この意味は、神が新しい世に登用する神人の地位を教えているのです。つまり、八角形の屋根の意味。これを理解した者は新しい世で登用するなのです。
西洋で説く「天使の羽根」ではなくて、八根(屋根)の上に立つ者達です。
 
大本教で、【3月3日の桃の花。5月5日の桃の実】と宣伝しましたが、その意味は解らなかったと思います。「3月3日」は桃の節句ですが、一般的に考えれば
「五月五日」は「粽」の節句です。「粽(ちまき)」ならば、話も解りますが「桃」では誰が考えても意味が解らないでしょう。
 
私は鍾馗神の案内で中国で創造神とも天子ともされている「磐古」大神に拝謁しましたが、その前段に「西王母」と呼ばれている女神に拝謁しました。私はその時、西王母さんに私の頭をなでなでして貰ったのですが、桃の実が頂けるのかと思っていましたところ、何も下さらなかった。何の為に私は神界に飛んだのだろうと首を捻っていました。
 
桃の実は、日本神話において、黄泉比良坂(よもつひらさか)の意味なのです。日本の神社の境内地の中には黄泉比良坂と呼ばれている場所が多々ありますが、別にそこに意味があるわけではありません。
桃は、天国に渡る魂に「誂える」の意味なのです。桃の字と誂えに「兆」の字が入ります。こうしたことが解らなければ、神の仕組みなど解る話ではありません。
私が子供の頃に臨んだ声は、日本神話の話はそのような事実があったのではなくて、この私が神の仕組みの為に作為したものであると告げられましたが、言葉に隠された教えなのです。
 
 
私は伏見稲荷大社講社で4年間神霊世界を垣間見て来て私の腹から出た声に従って、稲荷大神首座神の豊受様の元を離れて言霊師の師匠を2番目の師匠としてその言霊師の方といた時、突然に私に大本教開祖「出口なお」さんが見えたかと思うと、私の体に火の玉の様なものが背中に入って来て、私はアッチチです。背中が火傷しそうなほど熱いのです。
私がアッチチとやっているので驚いたその師匠がどうしたと言われるので、私に大本教開祖出口なおさんが懸かったと言うと、その師匠は【お前がごとき者に出口開祖の様な高いミタマが降りるはずがない。サニワ(審神)をしてやる】で、側に居た霊媒者通しに入ったのです。
 
その霊媒者を通して大本教開祖出口なおさんと思われる霊が発した言葉は「大本教はまな板の鯉。その鯉をどう料理するかは料理人の腕次第」と言われたのです。
 
その霊媒者の口から発せられた「大本教はまな板の鯉。その鯉をどう料理するかは料理人の腕次第」を横で聞いていた私に次に見えて来たのは「回教徒の宣伝使姿をした大本教の出口王仁三郎聖師」。また私の背中に火の玉でアッチチ。
出口なお開祖と思われる霊と会話していたその師匠が「今度はどうした」と聞かれるので、「今度は出口王仁三郎聖師」と告げると、「何!」です。すぐさま霊媒者に転送して会話をしていて、間違いなくこれは「出口王仁三郎聖師の霊だ!」。
 
私はその師匠と出口王仁三郎聖師の会話の内容は聞かずに、「大本教はまな板の鯉?。鯉をどう料理するかは料理人の腕次第?」と「回教(イスラム教)」と大本教をどう結びつけるのだろうか?。そればかりを考えていました。
 
【五月五日の鯉】に【アラーの神】をまな板の上で鯉料理?
 
 
私は大本教と言うまな板の「鯉」を料理して、「ラ神」と言う結論を導き出した次第です。無論、それには大本教開祖「出口なお」さんや「出口王仁三郎聖師」さんが私の前に出て来てくださったことが要因で、その最大の事柄は私が「五月五日」の鍾馗神の案内で盤古大神に拝謁したことです。
 
鍾馗神の「馗」は「九方に通じる道の九の道」です。それと大本教神諭予告「九つ花」と何か関係するのだろうか?。大本教が出した「東北金神」は「みちのく」です。東北を「道の九」とすれば、鍾馗神の「九の道」と同じ意味合いになります。
それが「鍾馗神」であることは、最初の師匠が私の母親に豊受様からの伝達として、息子さんの元に「鍾馗神」が行かれましたと連絡をいただいたことからも確かなのです。で、この仕組みの解読をされるはないとしても、豊受神も一枚噛んでおられたわけです。
 
日本における「五月五日」の端午の節句とは、江戸時代は「鍾馗人形」でした。最近は鍾馗神に代わって「源義経」人形になって来ています。
 
私が鍾馗神の案内で盤古大神に拝謁して、大本教霊界物語の「大政奉還」に首を捻っていた時、私の家の浴室の前に大きな「漢字」と書かれた浴衣を着用された出口王仁三郎聖師霊が立たれたことです。【漢字(中国語)の変換(返還)】に気づきです。
そして大本教神典と大本教による神の「型芝居」が、私が子供の頃に臨まれた旧約聖書の神と名乗る声が告げられた「どの神も私の筋書きを知らない」の筋書き(シナリオ)読みにと入ったわけです。
 
そして、私が見せられたのは「五月五日」の鯉が登って「龍」と化すでした。俗に「登龍門」と呼ばれる言葉があります。これは中国の故事、「黄河を登る鯉は龍と化す」から来ている言葉です。日本では縁起物として「鯉の瀧登り」が描かれのですが、本来は黄河を登る鯉は龍と化すなのです。だが私に出て来たのは「五月五日」の鯉のぼりだったのです。
 
 
鍾馗神とは「科挙(かきょう)」試験に落ちて自殺した存在とされています。この科挙とは「科目による選挙」を略した言葉です。自分が生まれた家柄とかではなく、公正な試験によって中国で官吏を登用する試験のことです。有能な人材の発掘です。この科挙の試験が「登龍門」とされます。
 
私が「鯉」の字から導き出したのは右辺の「里」の字です。その田の土から育って立つのが米としての「粒」です。
日本で言う「狸(タヌキ)」霊とは、別に動物の「狸」のことではありません。田から実る物が神の「宝(田から)」であり、そのタカラを「タ」抜きの「殻(空)」にした意味が狸だということは、一部の霊能者達は既に知っていることなのです。
 
私が見せられた光景に、みろく丸に黄金色の稲穂が山ほど積み込まれて、三途川を意味する港から、新しい世界にみろく丸たる船が出て行くがありました。米(稲穂)として実った者達は新しい未来の世に進むです。
 
五月五日は【粽(米の宗教)の節句】
米として立つが、神の「宝」たる者であり、みろく世に出世する(登龍門)
 
一般的に龍神と呼ばれているものは、聖書に霊界で年老いた蛇霊とあります。私の最初の師匠は龍神様とは、蛇霊が海山川(海山火)で各千年、合計三千年の修業を積んだものと言っていましたが、一般的にはそう言われているわけです。ただ、大本教の出口王仁三郎聖師は龍神と呼ばれる物の90数%は蛇霊だが、そうでない龍神も存在すると言われています。
私が見せられたものは、蛇霊からの龍ではなくて、鯉から龍の道なのです。蛇霊から龍に進んだとしても、それは霊力の誇示であって、真の神人の道ではないのです。龍神も浄霊しなければいけないと言われるのもその為です。
 
五月五日の鯉のぼりとは、龍と化して神と成る。
だが、それには【八根の真ん中に立つ】が重要なわけです。
それは「粽」の節句。それは宇宙を示す「米」の字が教えているわけです。
 
しかし、私達は「鯉」ではありません。それは「里」の道から進むことなのです。
では、里の道はどんな道なのでしょうか。それはこれまでこのブログでも説きに説いて来ました大本教神諭予告「九つ花」に示された道のことなのです。大本教の演技を解読させるものです。「米」教と言います。



米教は「みろく世」における「登龍門」の教えでもあるのです。米教は難しいからと逃げた人達は、それは「科挙」の試験を受けることを断念したようなものなのです。
 
 
言葉の意味が解る人達は、新しい世の指導者にと進んで行かれるでしょう。
 
神は言で示し申す
信仰は、人は言を仰ぎなさい
 
 
米で立つの「粒」は小さくても、「りゅう」ではあるのです。
 
八根の「米」型から、真ん中の「41」で天に登るは神と成る登竜門で、 その魂は神の魂に「誂」えられる桃の実。