CとDが熊先生の倫理学の講義を聞いた後、猫の倫理学のセミナーも聞き行く。
C:熊先生は「悪い事」というのは「自分にとって悪い事」なのだから、元来するはずがない。それをやってしまうのはそれが悪いという事を実は知らない」という話をしていた。
D:そうそう「悪いと知っていて悪い事をする人はいない」と。ソクラテスが言ってたらしいけど。でも、悪いと分かっていながら、ついついやってしまうということもあると思うけど。
C:それもあるけど、ついついじゃなくて、よくよく考えて、それが道徳的に悪い事もよくよく分かった上で、それでもそれをやる、って事もあるんじゃないかと思う。
猫:Dが言うのは、長期的に見れば自分に悪いと分かっていながら、その時の自分の欲望に負けて、ついついやってしまうということだね。それは確かにある。喫煙者や酒飲みはいつもそういう誘惑と闘っていて負けている事が多いわけだ。でもCが言うのはそうじゃなくて、道徳的に悪いとわかっていながら、長期的な観点も含めた自分の利益を優先させて、道徳的に悪い行為を、熟慮の末に、あえてやるということだね。それも充分にありうることだと思うよ。
D:じゃあ、悪い事を悪いと知っていながらする事もあるの?
猫:もちろんあるさ。「善い―悪い」というのは価値評価だから、その価値を享受する主体から切り離せない。誰がそれによって利益を受け、誰が害悪を受けるのか、という「誰にとって」という事を曖昧にしておいてはダメだ。他の多くの人にとって嫌がっていることで悪い事と思っている事で、自分にとって好きな事でよい事というのがありえる。その時の自分にとってある状況が好都合な人が、かりに何か超人的な力を持っていて、他の人が不都合なその状況を創り出したとする。その人は善いことをしたのか、それとも悪い事をしたのか。どうだと思う?
D:自分にとっては善い事だけど、他の多くの人にとっては悪い事でしょうね。
猫:その通り。そして、それこそが道徳的問題の原型なんだ。いいかい、その人はまず自分にとって善い事だからその状況を創った。そうでなければ、その人がその状況を創った理由なんかなかったんだから、それを否定することはできない。しかし、その人はそのことによって多くの他の人に不快な感情や苛立ちを生じさせた。つまり、彼らの快適な精神状態の維持にとっては、それは悪い事だった。だから、その人は道徳的には悪い事をしたことにされるのだろう。
C:そうすると、道徳的に悪い事って、多くの場合、自分にとってはよい事だ、ってことにならないかな?
猫:なるね。ソクラテスに反して、それはほとんど必然的な真理だ。そこに道徳的価値と他の諸価値との根本的な違いがあるんだ。だから、それを考慮に入れてない倫理学説はすべて無意味だ。
D:ということは、逆に、道徳的に善い事って、多くの場合、自分にとっては悪い事だってことになるのかな?
猫:そうとも限らないよ。愛している人達のためになる事を自分からも喜びを感じながら自分の快適な生存に有利になる為にする行為は、道徳的に善いことで自分にとっても善い事の場合があるからさ。
それで、自分にとって個人的に都合の良い好きな状況だが、他の多くの人にとって都合が悪い嫌な状況の話に戻ると、その人が起こした自分にとって都合の良い状況というのは、その時の自分にとって好都合だっただけだから、のちのち、自分の首を絞めることになるかもしれない。もしその人がその可能性が高いと思っていたなら、その人のやったことはDが言っていた「ついつい」のケースでもあることになる。まずは、他人にとって「善い事―悪い事」と、自分にとっての「善い事―悪い事」の区別だ。それから、自分にとって悪い事の中でも全体的・長期的に見た自分にとって「善い事―悪い事」と、その時の自分にとって「善い事―悪い事」の区別だ。こういうふうに区別を立てると、道徳的に悪い事というのは、他人にとって悪い事であり、かつ、少なくともその時の自分にとっては善いことである、と言えそうな気がしないか?
C:言えそうな気がするけど。でも、全体的・長期的に見た自分にとって善いか悪いかは?
猫:それは多くの場合、場合によりけりだな。
