皆さん、こんばんは。めまりんです。
さて、受験シーズンもそろそろ終わりを迎えようとしています。
皆さんのお身内の方、周りの方、進路は決まりましたでしょうか?
合格した人も、そうでない人ももちろんいます。
希望した進路に進めた人、不本意ながら、望んだ道を絶たれてしまった人なども、もちろんいると思います。
自分の何がいけなかったのかとか、「やっぱり自分なんて、」と思ってしまうのではないでしょうか?
しかし、それは本当に、「あなただから」ダメだったのでしょうか?
答えはきっと、「ノー」だと思うのです。
例えば、同じ成績、同じ内申書であったとしても、「女性」だからダメだったとか、「経済的に」ダメだったとか、「顔が好みではなかった」とか、そんなわけのわからない理由で、不合格になってしまう事は、この世の中、いくらでもあるのです。
決して、「あなただからダメだった」わけでも「実力が足りなかった」だけでもないのです。
そんな訳の分からない理由こそが、【差別】であったり、【運】であったりするのです。
差別と運を並列で並べてしまうのは、間違いかもしれませんが、一つの理由として考えられるものなので、敢えて両方書かせていただきます。
で、まずは、【差別】について。
皆さんの記憶にも新しいと思うのですが、2019年度、東京大学の入学式での上野千鶴子先生の祝辞はその象徴的なものでした。
その年、ある大学において、女子の合格に制限があることが表面化しました。
女性はどうせ医者になってもすぐに結婚・出産でやめてしまうという、何とも時代錯誤な事も、女子生徒の受け入れを制限する理由の一つとしてあげられていました。
そう、【女性】という【差別】によって、道を閉ざされた人が、何人もいたという事です。
同じ成績を収めていても、合格するのは、【男性】であるという、訳の分からない事実。
そして、進学してもなお、そこにはまだ、【性差別】が当たり前のようにあるのです。
そんなあらゆる 【差別】がある世の中であることを踏まえて、こうもおっしゃっています。
『あなたたちは頑張れば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、頑張ってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。』と。
つまり、努力は必ず報われるとは限らないのです。
そして、こう続けられます。
『頑張ったら報われるとあなたがたが思える事そのものが、あなた方の努力の成果ではなく、環境のおかげだったことを忘れないようにしてください。』と。
私が感銘を受けたのは、【努力】が本当に本人の【努力】だけであったか?と、いう点です。
『あなたたちが今日「頑張ったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持って引き上げ、やり遂げたことを評価してほめてくれたからこそです。」』と。
つまり、本人の頑張り以上に、【環境】の力がいかに大きいかを示しています。
性別や経済力、そして、親の人脈や教える人間の質など。すべてのことが絡み合い、その結果として、今のあなた、私がいるのです。
それ自体を【運】というのかもしれません。
ただ、努力しなければそのスタートラインにも立てなかった。
努力はもちろんすべきですし、それがなければ始まらない事も、たくさんあります。
しかし、【環境】によって、報われる努力と報われない努力に分かれてしまう。
とても、理不尽な事です。
そうなると、【努力】することもやめ、腐って生きる道を選ぶ人も出てくるかもしれません。
その気持ち、とてもよくわかります。
私も【報われない】方の人間で、何度も煮え湯を飲んできた人間です。
ですが、この【報われなかった努力】のおかげで、道が開けた人がいることも、また、事実ではあります。
私の大好きな俳優・タレントの大泉洋さんもそんな一人です。
希望した大学に二浪しても合格できず、不本意ながら、行きたくなかった大学に進学することになりました。
もう、死んでもいいとさえ思っていたそうです。
だけど、そこで、「このままではまずい。」と感じた彼は、何かを始めようと考えるのです。
そこで、彼は、演劇に出会うのです。
演劇に出会い、仲間に出会い、TEAM NACSを結成し、俳優となり、今に至ります。
総ては、あの、【報われなかった努力】のおかげで、道が開けたのです。そして、「腐らず」に「何かを始めた」ことが大きな転機になったのです。
もし、希望した大学に進学していたら、今の彼は存在しなかった。
もし、そのまま腐っていたら、今の彼はなかった。
失敗しても、腐らずに、前向きにいれば、きっと何かが動きだす。良いことが起こる。
大学に行って、演劇を始めた。そのたった小さな一歩が彼を今の道に導いた。
だから、努力が報われなかったとしても、そのおかげで開ける道もあるのです。
私は常々、人は、道を選んでいるのではなく、選ばされているのかも知れない、と、思う事があります。
人生は、あらかじめプログラミングされており、その中で、一定の課題が仕組まれている。
そのタイミングはわからなくても、課題自体は必ず実行されるものとして存在している。
だから、一見成功と思われる道の先にも、その人が解決するべき課題や取り組まなければならない事が待っている。
今、この世の中を動かしている、少数の、とても賢い人たちがいますが、彼らはきっと、世の中の問題を解決するという、大きすぎるほどの課題を背負って生まれてきている。
その課題をクリアするための最初のアイテムとして、「賢さ」を標準装備しておかなければならなかった。
だから、神様はその子に「賢さ」という、アイテムを授け、この世に送り込んだ。
もし、その子が生まれた後に【報われる努力】が出来て、望んだ道にすんなりと進んで行けたのなら、その先に、【解決すべき課題】が待っているのです。
先の上野先生のスピーチに戻りますが、このようにも述べておられました。
『あなたたちの頑張りを、どうぞ自分が勝ち抜く為だけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれない人々を貶める(おとしめる)為にではなく、そういうひとびとを助ける為に使ってください。』と。
つまり、自分の努力がなぜ【報われる】方の努力であったのか、報われたからには、それをどう生かしていくのか、そのことを問われていくという事です。
そのさきに、果たすべき使命や役割があるからこそ、その時点で【合格】という道が開いたのだと思うのです。
進むべき道は、あらかじめ決まっていて、その進んだ先の選択をいかにしていくべきか、そこのみが最も重要な事なのではないでしょうか?
【報われた努力】にも実は理由と課題があり、【報われなかった努力】にも理由と課題があるのです。
後は、その場所で、【どう生きるのか】だけが、人間の真価を決め、その後の人生で【報われる】努力ができるかになってくる。
その時点では【失敗】に見えたことも実は【失敗】ではなく、【進むべき道】と、【進んではいけない道】が指示されただけなのかもしれません。
そこは、ただの通過点。
そこからどう生きていくか、ただ、そこに尽きるのです。