受け止める側に立っても、放つ側に立っても、怒りという感情に気圧され、振り回されたことは多々多い。また時間の経過とともに悩まされることから、負の印象も伴う。

しかし、明るく陽の下に置かれても、光と遜色ない輝きを放つ義憤という怒り方もある一方、他者から自身を蔑ろにされることよって、暗くふつふつと沸き上がる湿った怒りや、想定外の出来事が連なり、予期せぬ不安や悲しみの中、その包囲を突破するための怒りなど、怒りという言葉で表される心情は多岐にわたる。

だが、往々にして、ただ爆発させるだけの怒りは陽の下に晒されることはない。

むしろ、そういった爆発性の怒りは晒されることを避けられる。

陽の下への移行が何であれ、突発的で爆発的な怒りは、他者において恐怖の対象であり、子供じみた個人的な感情であるという理由で、陽の下では拒まれる。

従って、陽の下に移行させないような檻の中での制御が望まれている。制御であって、無くすことではないことを、怒りに苦しめられた人々はどこかで知っている。

そして、無くすのではなく、制御であることによって、怒りの本質が浮き彫りにもなるだろう。


無くすという言葉の意味を本来の意味まで深めると、怒りという言葉(=概念)すらも無くすことだが、仮に怒りという感情だけを無くせるものならば、無くす以前にどこかで怒りを手に入れているか、あるいは元々備わっている必要があり、最終的にどこかで怒りを切り離す瞬間が訪れる。


まず、無くす前の怒りの所在の問題だが、怒りがどこからか入手するものならば、怒りは外在的な何か、教育や社会生活で他者に教えてもらう感情になるだろう。例えば、自尊心を傷つけられた場合には顔を強張らせ、大声をあげていいのだよ、と。

しかし、状況は種々様々であり、種々様々な状況において怒りのタイミングや種類を教えなければならないだろう。このように怒りの外在性とは、生まれながらの人間には備わっていない機能を、あえて外側から肉付けするということである。

しかし教えられる以前から私たちは様々な状況で怒りを発現できるように思われる。学ぶことで得られる怒りもあるだろうが、現実に怒りとは、そのようにして教えてもらう感情ではなく、常に備わっているものだという事実は、社会では暗黙に了解されている。

ただ暗黙に了解しているものが、常に真実とは限らないゆえに、思考する必要がある。


ところで私たちの怒りは、常に備わっているが、陽の下にも、檻の中でも、常に発現されているわけではない。何かのきっかけがあり火がつく。あたかも薪と酸素の化合のように、火がつき、小さなゆらめきから、あるいは爆発的な大きな炎にまで拡張し、やがては鎮火する。火も怒りも永続しない理由は、熱量の問題であるだろう。大きな炎のような怒りは、大きな熱量を使用する。怒りはその大きな熱量をやがては喰くいつくし鎮火する。あるいは大きな熱量を供給するような意識の志向を持つ人はまれであるだろうから、大抵の人々は、日々の生活、食事や睡眠によって怒りへの熱量は冷める。冷まされ熱量を使用できる状況に達した自己は、記憶に頼り再燃を起こすこともあるだろう。

怒りは常備型ではあるが、常に発現している訳ではない。このようなあり方をしている場合、「無くす」とは「発現させない」ことを指すことになるだろう。

では、生まれながらに備わっている怒りという感情を、「発現させない」ことはできるのだろうか。

一時的に発現させなくすることは、上記に示したように、なかば無意識的にできうる。できうるが怒りという性質上、再燃や別の事柄での怒りの再起を起こしかねないという意味で一時的である。

では一時的な怒りをどう発現させないことができるのか。

怒りの性質をまとめると、怒りとは常備型で常に発現しているものではなかった。この性質は私たちに普遍的に当てはまる「形式(構造)」といえる。

しかし一人一人の怒りの「内容(動機)」を見ると、種々様々であることは容易に予想できる。私たちにとって他者ほど「内容」がわからないものはない。わかっているのは、感情や感覚など共通の「形式」である。そのことで他者を真に理解してしまわぬよう注意を要するだろう。


ここまで言葉の意味や、既存事実を元に怒りを推測してきたが、実際に怒りを持たない人間は存在するのかもしれないし、そういった人間が存在することを、私たちは「形式」で感知できても、「内容」では感知できない。

しかし、怒りを持たない人間は「怒り」という言葉、概念を理解しないだろう。従って、先程の「普遍的に当てはまる」とは、怒りという言葉と概念を理解する人々のみを指すことになる。怒りの概念を理解する人々の間では、怒りは相互に常備されており、何かのきっかけで発現する感情、と理解される。その文体が「形式」としての怒りであり、「何かのきっかけ」が個人に委ねられた「内容」になる。

ということならば、普遍的であるがゆえに、文体の「形式」は変更が不可であり(怒りを「発現させない」ことはできない)、個人ゆえの「内容」によって、怒りを「発現させない」ことはできる(怒りの制御)。

まとめると、「形式」としての怒りは、人間そのものに組み込まれた義務のようなもので、変更不可であり、「発現させない」ことはできない。「内容」としての怒りは、個人の状況いかんによって制御可能であり、その制御下において「発現させない」ことが可能的にできうる。


個人が他者ではなく、単位としての、算定されうる人でもない個人ゆえに、個人を取り巻く状況は個別であるだろう。たとえ他者と同じ場、同じ時に置かれたとしても。

それが他者ではない個人の本質でもある。

そして状況への介入、状況からの取捨選択のような観察から、やみくも的な無意識の習慣的選択まで、世界へと開いている個人の内容的受動や能動は、それぞれが個別であるだろう。

私も個人であるために「だろう」という推察のみが的を得ているだろうが、状況からの情報の汲み取り方次第では、「内容」としての怒りは制御できる。

むしろその状況としての場を創り制御することすらも、他者との関係で構築された社会では、個人に強く求められている。

怒りの制御は状況の制御でもある。

怒りを制御の方面へと定めると、怒りの原因は外側には全く無いことを自覚せざるをえない。あるのは私が「形式」としての怒りを持つという事実のみである。


自身を変えようと決意を迫られるほどの他者に出会うのはまれであるが、自身が他者を説得しようと意欲することは容易である。何とも傲慢な態度だが、他者は根本から容易には変えられない。

自身の目線に留まらず、俯瞰的に眺めるのならば、他者は容易には変えらないという解釈は、私たち一人一人が人体の歴史という「形式」を取り込みつつも、他者が私とは身体的に隔たり、経験に先立つ既知の感情、態度などの「表現」なくしては、人格や経験にどこにも繋がりが見いだせない、同等ではない「内容」を持つという前提の上に立つ。

この前提において、ある種の他者に対して、ある種の言動を、私は躊躇し抑制せざるを得ない。このような躊躇と抑制、言い換えれば言葉で自らを縛ることにおいて、「内容」的な沸き上がる怒りを鎮圧せしめることも可能となるだろう。

沈黙は言葉に詰まるからではない。言葉のみでは「内容」的な隔たりを越えられない。図らずも「形式」的に理解されてしまえば、誤伝してしまうかもしれない危惧もある。あるいは正確に伝わるのならば他者に責任を負わせるのではないか(レヴィナスの「苦しみ」のように(※1))、というような苦悩さえよぎる。

しかし、その「内容」的な隔たりを越えられるものも「表現」に他ならない。

信頼、真面目、誠実、愛。それらは言葉や態度といった「表現」に密接に関わっている。

自身から見た他者の「内容」の欠如は、「表現」としての言葉や態度で埋め合わされている。

それが自身ではない他者の本質であるだろうが、その「表現」に個性や心を私たちは見る。

理解するのではなく、評価するのでもなく、ただ見ることによって個性を。私と同じことが誰にもできないように、彼と同じことは誰にもできないという自然的理において、ただ見ることによって顕現される個性。他者を私とは違う他者として扱う視点。

また解釈と理解しようとする自覚と共に、見たものを私と同列に配列することによる関わりにおいて、共同の心をありありと観る。私たちは他者に心を観ることによって完全な孤立化を防いでいるかのように、他者を観る。

だとするならば、個性は見る対象に宿り、心は私が見出だすことによって他者との関係の間で観られる、と言えるのではないだろうか。

そのような見方を怒りに適用するのならば、怒りは個性ではなく、心と同じ様な仕方で観られる。もし個性的な怒りという感情があるのならば、恐怖も嫌悪もされないであろう。恐怖や嫌悪をされるのは、その怒りが私の感情と同列に置かれているからである。言い換えるのならば、同列に置かれた怒りは、他者との関係を繋ぐ「表現」とも言える。

ここで疑問となるのは、怒りの表現者は、何のために他者との繋がりを怒りを介して結ぼうとするのだろうか、という問いだ。

いや、怒りの表現者の意識は、他者との結びつきを得るために怒りを発現してはいないかもしれないが、怒りには他者に訴える力がある。

しかし、その訴える力そのものの怒りという「形式」は、なぜ訴えるという仕方で他者と繋がってしまうのか。


はじめの問いは他者の「内容」に無配慮に踏み込むことだろう。それにあえて解答するのならば、怒りという「表現」の中に潜む、自身の「形式」と「内容」を言葉という接着剤で寸分違わず密着させることで見えてくるのではないだろうか。

例えば、あたかもマインドフルネス(※2)が教示するように、身体の一動作を意識で追い、言葉で付箋していくように。私たちは右手を動かしたいと思って右手を動かしているわけではない。動かそうと思わずとも、右手は鞄からスマホを取り出しタップする。これが「形式」としての「表現」であるだろう。

右手を動かすことに注意を注ぐ意識の集中、意識と身体が一体となった「表現」が「内容」を伴う「形式」としてのマインドフルネスであり、これらの過程を怒りに適用し、言葉で接着していく思考が怒りの理解にも、しいては怒りの制御にも繋がる。

後者の問いについては、それが普遍的な「形式」だからという解答が以前に与えられている。それ以上でもそれ以下でもなく、それ以外私たちには知り得ない。私と他者という概念の存在することの意味を問うようなものに相違ないだろう。


死んでしまいたい意味を見つけると、死なないための意味、反転して生きる意味をも模索するように、人間には意味をあらゆる仕方で付箋することができる(低い階層では、他者への責任転嫁もある意味では自身を正当化する意味を持っている)。

意味は意識の生存の根本要因に位置する。死ぬ意味と真っ向から対峙した意識ならば、意味なしでは生に耐えられない。

怒りの「形式」はそのような意味において、生に意味を与えるものであるだろう。すなわち、怒りとは他者と対等に繋がり、私が存在するということを他者に知らしめる感情だと言える。

そのような意味を持たせた感情は社会的には肯定されづらいが、怒りの表現者を目の当たりにした際には、その意味とともに怒りの表現者をも私に取り込める。

「形式」的な他者の怒りに対して感じる存在感、正当化しがたい他者の怒りに対して感じる、私の正当な他者の存在は、共通な怒りの「形式」を通して受け入れ可能な他者として私の目の前に存在する。

それは他者が「全に対しての個人(普遍を見通してからの個)」として受け入れ可能になる唯一の方法である。

その存在感は転じて、他者理解への無力感から最大の一歩を他者へと踏み出す。

その一歩から「内容」に踏み込んだとしても、言葉や態度は他者に対して親和性を持つに至るだろう。


※1 レヴィナスについて

書籍「傷の哲学、レヴィナス」 

村上 靖彦 著

河出書房新社 出版


※2 マインドフルネスについて

書籍「マインドフルネス最前線」

香山リカ 他著

サンガ 出版