疲労困憊でワインに呑まれた。 


スズラン酒造 白ワイン[シャルドネ 720ml]


抜栓1日目。 

自身が身体的、精神的に疲弊したためか、香りは露ほども感じられず、酸敗した味わいを感じてしまった。 


 2日目。 

身体的、精神的に通常運転へと復帰。 

太陽に照らされた月明かりのような輝き。 

控えめながら脂質のある香り。 

軽く刺激的で引き締まった酸味とともに、丸い肉厚さと粘性を伴う豊かな果実味。 

飲み込む際の爽やかでキレのある苦味も注目に値する。 


抜栓直後でも美味しく飲める白ワインは、抜栓後の時間経過で赤ワイン程の味わいの変化は見られないのが一般的であるのならば、身体や精神の調子でこれほどまでに味わいや香りに違いが見られるのに驚いた。 

ワインも未知数だが、私たちの身体や精神も、いまだに私たちの感じる意識には依然として詳しくは知られてはいないのだろう。 


調子の良し悪しが、基準となる状態からの逸脱を示し、調子が自身の身体と精神のみに帰属するのならば、人は自身の内々において調子の基準を持っているといえる。 

その基準が言葉と連結する以前の感覚であり、自身の内々のみであるのならば(そもそも感覚を感じるとは言葉を必要とはせず、感覚は自身しか感じないのだが)、他人には知られない感覚があっても不思議ではない。 

しかし社会では、感覚は言葉と繋がることで万国共通の普遍さを持たらされているように思われる。

外傷、心傷であれ、痛いという言葉は誰にとっても、言葉以前の自身のあの痛さに直結する。

しかし痛いは極端な状態の名前でもある。より穏やかな中くらいの程度も、さらにたえず思いのうちで演じられるより低い程度の長く記憶に吹き返す漫然さも、私は感じることができる。


感覚の本質が、誰にも譲られず自身のみに与えられ、外界への判断と認識を促すのならば、決して幸福感には至らないが他人の痛みを知らないことは盲目的に幸せである。

翻って他人の痛みを知ることとは、他人を自身のうちに取り込むことから始まり、限られた個人において自身のうちで、経験や内省に基づく再構成する想像力をもって痛みを共有する。

あなたの痛みは私の痛みでもあるのだ、と哀憫し、私は二重に痛みを感じてしまうのだ。 

他人に痛みを知られないことはどうだろうか。

他人は自身の痛みを知らないのだから幸せではあるだろうが、自身が痛みを抱え、他人に知られないことが不幸であるとは限らない。

自身の痛みを他人に知られていないことで、自身は他人の幸せを知っている。それが親しい人であればあるほど、自身は幸せでもあるだろう。 

しかし人間的であるものの何ものも私にとっては疎遠であるとは思わない。 

感じるものは、何ものも人間の限界であるにすぎないのだから。 

「われわれは自らの網の中にいる、われわれ蜘蛛は。そしてわれわれがそこで何をつかまえようとも、まさしくわれわれの網でつかまえられるもの以外には、何もつかまえることはできない。」※


※「ニーチェ全集 第七巻」理想社 

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ 著 

信太 正三、原 佑、古澤 傳三郎編集