父の手記 軍属時代1 | 目からウロコの異文化交流

目からウロコの異文化交流

―日本語教師のつれづれ日記―

父が志願した軍属の時代の記録です。

 

軍属時代1(1943〜1944)

 

昭和18年(1943年)1月25日、名古屋を出発。

中国大陸とのみ知らされ詳細は不明のままだった。

 

下関港から輸送船に乗り、内地を離れたのは1月26日の夕方だったか。

歌の文句そのまま

 

ああ、堂々の輸送船 さらば祖国よ 栄えあれ

遥かに拝む宮城の 空に誓ったこの決意

 

総員40名位だったか甲板に出て、誰からともなく大合唱となった。

 

水平線に消えゆく内地の山々、いつの日再び見ることが出来るか、これが見納めか。

重大な決意をしたのは正にこの時だった。

 

釜山から汽車に乗り朝鮮を北上、満州より北支廻りで浦口へ到着。

揚子江を渡れば南京だ。

一週間程逗留、そして揚子江を上り紀元節(建国記念日)の翌日、漢口へ上陸した。

 

第11軍司令部参謀部情報部室兵要地誌班へ配属となる。

仕事は面白かった。

 

地図班や写真班とも交流があり、友人も出来た。

中国大陸でも在支来空軍が強化され、空襲も始まった。

 

漢口勤務一年余りで19年5月、湘桂作戦が始まった。

これは大東亜縦貫鉄道建設の為の作戦の一部で、大陸打通作戦とも云った。

 

18年12月に常徳作戦を終えた第11軍は、19年5月に戦闘指令所を蒲近に進出。

武昌より列車輸送中に見た蛍の乱舞が印象深かった。

 

6月下旬、荷物運送の為、下士官以下数名で洞庭湖の岳洲よりジャンク船で洞庭湖を南下した。

暗闇の湖上に帆柱の折れたジャンク船が流れてくる。

 

いくら呼んでも返事はなく、正に幽霊船だ。

爆撃を受けた先の戦隊の残骸だったのだ。

 

やがて泪水を上り新市の戦闘司令所に到着。

湖南省の7月は相当暑い。

 

炊事で豆の選別をしていたら参謀長中山貞武閣下に誉められた事があった。

 

しばらく逗留の後、雨の中を長沙に向かって行軍、3、4日かかった。

何処からか射撃の音が聞こえることがたびたびあった。

 

大砲の音も聞こえたが、発射音か着弾音か、戦地初めての私には分からないが気持ちの良いものではなかった。

又、このあたりは瘴癘(しょうれい)の地と云われ、伝染病の巣のような危ない所だ。

 

それでも暑さには勝てず田の水も飲んだが、よく生きられたものだ。

こんな所で野戦病院にでも入ったら、それは死を意味するから。

 

長沙は湖南省の省都で、湘江に面し、対岸には岳麓山がある有名な町。

ここでも司令部が爆雷を受け、死者が出た。

 

又、水くみに行って地雷にかかる者もあった。

我々は司令部要員だから戦闘をするようなことはないが、危険な事に変わりない。

 

長沙を攻略したのは(昭和19年)6月18日だった。

 

 

先の大戦で父は武器を持って戦ったと、ずっと勘違いしていた私。

生のねぎと玉ねぎ以外は、ほぼ何でも食べられるが、幼い頃はひどい偏食だった。

 

嫌いなものばかりで、食べられるものが少なかった。

母に言われたものだ

「お父さんは戦争中に食べ物がなくて、戦地でトカゲや蛇や蛙を食べて生き延びたんだよ」

だから、わがまま言わずに出されたものはちゃんと食べなさいと。

 

手記を読んで、それは真っ赤なウソだったと分かった。

ただし田んぼの水は飲んだんだね。

 

参謀長中山貞武は、当時の父からしたら雲の上の人。

そんな人に誉められて、父は天にも上る気持ちだっただろう。

 

店員時代に身につけた知識が役に立ったのかも。