父の手記 軍属時代2 | 目からウロコの異文化交流

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―日本語教師のつれづれ日記―

父の手記、終戦の日まで。

 

軍属時代2(1944〜1945)

 

長沙を攻略したのは昭和19年6月18日だった。

衝陽がなかなか落ちなかったので、酷暑の長沙は長かった。

 

衝陽の陥落は8月8日だった。

やがて、衝陽〜零陵〜全県〜桂林を経て、柳州へ着いたのは12月上旬だった。

 

6ヶ月にわたる作戦であった。

広西省とはいえ秋も深まっていた。

 

柳州へ着くと、すぐに遠州地方の地震の情報が入った。

我が家もだいぶやられたようだ。

 

大陸戦線では勝ち戦だったが、沖縄や内地はやや苦境に陥っていたようだ。

衝陽戦闘司令所は下牌沖。

 

全県のそれは南三村、10月14日に進出。

3D(Dは師団の略号)の一部は都匀(貴州省)へ13Dは独山まで進出したが、まもなく撤退した。

 

記録によれば長沙〜易浴川〜衝陽〜零陵〜全県で9月頃コレラが発生し、真性125件、疑似50件とある。

 

柳州の冬は気候も良く生活的には楽だった。

しかし、戦闘司令所の入口に戦車壕を掘ったり、作戦の前途が不明瞭の為か、遺髪と遺爪を本籍地と留守家族の住所を記入して提出したこともあった。

 

湘桂第二期作戦とは桂柳の航空基地覆滅。

「かくて湘桂第二期作戦は赫々たる成果を収めて桂柳の航空基地を覆滅したうえ、黔桂鉄道の沿線の要域を制し、引き続き後段作戦として南寧の攻略を終え、佛印(仏領インドシナ)への連絡路を打通し、大陸打通作戦を完了した」(廣西の会戦より)

 

柳州の駐留は乾期より雨期に至る約半年だった。

乾期は水を汲むのに洞窟の穴を下って行ったのに、雨期に入ると数日で入口まで溢れたのには驚いた。

中国の川は奥が長い故か、水位の差が甚だしかった。

 

やがて5月頃、反転作戦が始まり柳州より桂林へ。

桂林は昔から「桂林山水天下の甲」と云われるだけあって、正に絶景だった。

 

進撃の時とは違った見方が出来、風洞山、独秀峰、象鼻山、畳形山等、南画の原点とも思われた。

一週間ほど駐留したが、やがて全県へ向けて撤退。戦闘司令所の設営中に命令が来た。

 

「作業中止、明日正午単独の軍装にて集合」正しく運命の日。

 

8月15日、もしかしたら一日遅れの16日だったかもしれない。

この数日前、友軍機が飛んでいることがあり、状況が好転したのかなぁなんて思っていた時、突然の終戦の詔勅。

 

ラジオではなく参謀が読み上げた。

正に青天の霹靂だった。

 

廣西省の山の中の小屋で兵隊と4、5人の起居だった。

戦は終わった。

 

住民に襲われたら万事休すだ。

でも住民はラジオもなく情報がないので助かった。

 

 

本日はここまで。

次回は最終章、帰国までの約1年間の記録。