藤井美菜さんのブログ、「藤井美菜の思うこと」(BOOKMARKに登録してありますのでよろしければどうぞ)の「21歳の個性」(2009/9/9)に映画の撮影でお世話になった監督に虚無感を抱えているように見えるといっていただいたとありました。
藤井さんは自己の個性を褒めてもらったと書いていますが、虚無感を抱えているというのは褒め言葉ではないでしょう。
虚無感の定義は、人生に意味が見出せないことというものです。
人生においては、そういう感覚を持つ時期もあると思います。
個人的には、おそらく自己同一性の確立の過程としてあるのかとは思っています。
人生の先が見えなくなるというのは、自分自身に価値を見出せずにもがくということだと思いますからね。
そこを抜けた時に、自分自身の価値を見出して、人生を創造していくことができるのではと思っています。
こんなことを書いている私自身がまだそこまで達してはいないんですけどね。
自分の価値とは何かといわれても確固としたものがないんですよね。
経験や考えることを通して、そういったものが身につけばとは思っています。
さて、
藤井さんの記事の中では、虚無感も個性という書き方をされています。
個人的には、この個性という言葉は危うさを持っている様な気がしています。
個性を辞書で引くと、「個人または個体・個物に備わった、そのもの特有の性質。個人性。」とでてきます。
簡単に言うと、個人が存在しているだけで当たり前に備わっているものなのです。
近頃感じるのですが、個性という言葉が独り歩きして、個人性を損なっているような感覚を受けています。
学校教育では、私が小学生だった頃から個性を重視した教育というのが叫ばれ始めたと記憶しています。
ちなみに、私は20代後半です。
その時には、個性的な人間になれということが言われていましたし、私もそれは大事だと思っていました。
ただ、これを、自己同一性すら確立していない小学生に対して要求した場合、弊害の方が大きいのではないかと考えています。
個性というのは言い換えれば自分らしさというものでしょう。
自分らしさを認識するには自分はどのような長所や短所を持っていて、それを自分自身はどう感じているか。
また、それをまわりはどう受け止めているかという、主観的、客観的視点に基づいて自分を見ることが必要です。
それができたときに初めて、個性の認識ができるのではないかと思うのです。
今の教育においては、自己認識の部分をふっとばして、個性という言葉を押し付けている様な気がしてならないのです。
自己の認識すらできていない状態で、個性を押し付けられれば、基盤ができていないわけですから、歪んだ自己感を形成してしまう危険性があるのではと思っています。
そもそも、個性的になれというのは、そこにいる個人を尊重していないどころか、むしろ積極的に否定しているようにも取られかねない様な気がします。
個性という別人格とも取れるようなものを要求しているわけですからね。
子供にとってこれは重大な損害となりえます。
この弊害はマズローの欲求階層論 を考えるのが分かりやすいかと思います。
この欲求階層論は、下位の欲求が満たされた時に、上位の欲求を満たせるようになるというものです。
個性的になれとするのは、おそらく、最上位である自己実現につながるものです。
ところが、個性を押し付けた場合、損なわれるのは、その下位である承認の欲求であると考えられます。
下位欲求がぐらつくようであれば、上位欲求が充足される可能性は著しく低くなるのです。
個性を押し付けるより前に、まずは自分の長所短所を見極めて、主観的、客観的自己を確立するほうが重要だと考えています。
ここからは雑談ですが、
教育界というのは個性などと同様に、非常に定義しづらい言葉を振りかざして、自分の権威を高めようとしているやつが多いんですよね。
個人的に嫌いな言葉は、「生きる力」と「愛国心」です。
どういう力が身についていれば、生きる力といえるのか。
また、それを測定する手段は何かが明確になっていないのです。
愛国心も同様です。
数学なら、たとえば四則演算であれば、テストをとおして測定もできます。
そのような測定基準がないのに、評価項目とすることが問題だと考えています。
こんなことを許せば、教師の好き嫌いで評価をされる結果となりかねませんからね。
こういう、意味が分からない評価基準を作って飯を食っているろくでもないやつが教育界には多い様な気がしています。
藤井さんは自己の個性を褒めてもらったと書いていますが、虚無感を抱えているというのは褒め言葉ではないでしょう。
虚無感の定義は、人生に意味が見出せないことというものです。
人生においては、そういう感覚を持つ時期もあると思います。
個人的には、おそらく自己同一性の確立の過程としてあるのかとは思っています。
人生の先が見えなくなるというのは、自分自身に価値を見出せずにもがくということだと思いますからね。
そこを抜けた時に、自分自身の価値を見出して、人生を創造していくことができるのではと思っています。
こんなことを書いている私自身がまだそこまで達してはいないんですけどね。
自分の価値とは何かといわれても確固としたものがないんですよね。
経験や考えることを通して、そういったものが身につけばとは思っています。
さて、
藤井さんの記事の中では、虚無感も個性という書き方をされています。
個人的には、この個性という言葉は危うさを持っている様な気がしています。
個性を辞書で引くと、「個人または個体・個物に備わった、そのもの特有の性質。個人性。」とでてきます。
簡単に言うと、個人が存在しているだけで当たり前に備わっているものなのです。
近頃感じるのですが、個性という言葉が独り歩きして、個人性を損なっているような感覚を受けています。
学校教育では、私が小学生だった頃から個性を重視した教育というのが叫ばれ始めたと記憶しています。
ちなみに、私は20代後半です。
その時には、個性的な人間になれということが言われていましたし、私もそれは大事だと思っていました。
ただ、これを、自己同一性すら確立していない小学生に対して要求した場合、弊害の方が大きいのではないかと考えています。
個性というのは言い換えれば自分らしさというものでしょう。
自分らしさを認識するには自分はどのような長所や短所を持っていて、それを自分自身はどう感じているか。
また、それをまわりはどう受け止めているかという、主観的、客観的視点に基づいて自分を見ることが必要です。
それができたときに初めて、個性の認識ができるのではないかと思うのです。
今の教育においては、自己認識の部分をふっとばして、個性という言葉を押し付けている様な気がしてならないのです。
自己の認識すらできていない状態で、個性を押し付けられれば、基盤ができていないわけですから、歪んだ自己感を形成してしまう危険性があるのではと思っています。
そもそも、個性的になれというのは、そこにいる個人を尊重していないどころか、むしろ積極的に否定しているようにも取られかねない様な気がします。
個性という別人格とも取れるようなものを要求しているわけですからね。
子供にとってこれは重大な損害となりえます。
この弊害はマズローの欲求階層論 を考えるのが分かりやすいかと思います。
この欲求階層論は、下位の欲求が満たされた時に、上位の欲求を満たせるようになるというものです。
個性的になれとするのは、おそらく、最上位である自己実現につながるものです。
ところが、個性を押し付けた場合、損なわれるのは、その下位である承認の欲求であると考えられます。
下位欲求がぐらつくようであれば、上位欲求が充足される可能性は著しく低くなるのです。
個性を押し付けるより前に、まずは自分の長所短所を見極めて、主観的、客観的自己を確立するほうが重要だと考えています。
ここからは雑談ですが、
教育界というのは個性などと同様に、非常に定義しづらい言葉を振りかざして、自分の権威を高めようとしているやつが多いんですよね。
個人的に嫌いな言葉は、「生きる力」と「愛国心」です。
どういう力が身についていれば、生きる力といえるのか。
また、それを測定する手段は何かが明確になっていないのです。
愛国心も同様です。
数学なら、たとえば四則演算であれば、テストをとおして測定もできます。
そのような測定基準がないのに、評価項目とすることが問題だと考えています。
こんなことを許せば、教師の好き嫌いで評価をされる結果となりかねませんからね。
こういう、意味が分からない評価基準を作って飯を食っているろくでもないやつが教育界には多い様な気がしています。
