私がよせと言う神様の力比べとは。 | 明主の浄霊・救霊ブログ

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いかなる状況にあろうと、私は見捨てない。死にそうな人。入院中の人。信仰をとがめられている人。精神病院に隔離されている人。神様や仏様は信じられても、教団にそぐわない人。死ぬのが怖い人。生きるのがつらい人。皆私を頼りなさい。

神様の力比べと言うのは良くないです。

神様は争わないと言いますが、
眷属の世界では、小さなしまを巡って争ってばかりです。

例えば、天理教だつた人が、神慈秀明会に
おかげが多いので、乗り換えました。

それが、神様の力比べて゛す。


神慈秀明会の盛んなころは、確かに力はありました。
でもそれは、明主様ではなく
龍神パワーだったんですね。

いずれも、同じ龍神を介していますが
天理教などは成熟しているので
伸びしろが少ない訳です。

それで、力比べしたら、神慈秀明会の龍神が勝ちました。
それで、天理教の方はどうなるかと言うと
当然、信者が減る訳なんで、仕返しを考えますね。

何もしませんが、なんか怪しげなことがあると
攻撃する方の味方に付くででしょう。

それを、他の神様に置き換えてみてください。

広島の場合、厳島神社がありますが
その存在を無視しまして、神慈秀明会に行きました。

おかげは大きかったが、代償として家中のお金は無くなり
身の奉仕もさせられて、家庭崩壊寸前まで行きました。

さて、これが幸せでしょうか。

良く考えたら、神様に悪気はなくても
かつおぶし信心を最もした、小山家や幹部連中が
いい想いをしただけなんですね。

もちろん、おかげはありましたが、代償はすごかった。

話を元に戻すと、厳島神社の神様は
しつぽすら振ってこない人間がかわいいですか。

明主様以外、神様とも思わず、
まったくご挨拶すらしないわけですよ。

とんでもない野郎に見えますな。

そんなやつ、守護したいと思います。
思わないでしょう。

たとえ、力は弱くとも、真剣に祈るものは
守護したくなりますね。

だから、理想は両方すべきなんですよ。

代々天理教をしていて、変わりました。
それは先祖が許しません。
話が違うわね。

たいていは、仏教ねそれも浄土系か、法華系などが多いでしょうな。

うちの遠い親戚に、キリスト教にしたものがいます。
知らないにしても、キリスト教は先祖供養などしないとこ。

腹を立てる先祖も先祖ですが、全く曇りが取れないわけ。
最悪でしょ。先祖はね。

本人たちは、それなりにとれるとは思いますが。

それで、徳山大学のとき、下宿で安易な食事を
したせいもあって、大腸か゜んになりまして、
人工肛門となりました。

実は、僕の兄も全く、信仰をしませんので
そうなりました。せいぜい、お賽銭くらいのもんですから。
ほとんど、効き目がないわけ。

出すものを、どこにも出さず、ため込むだけだから。
解らせてやるもあると思います。

もちろん遺伝子も関係ありますが、
僕はならないのは、神様ごとには出したからなんですね。

親元にいて、いい食事ももちろんありますが
信仰による部分は大いにある訳。

親元にいるのも、二人分下宿なんて
到底無理で、選択肢がなかったたわけなんで
僕からしたら、ある意味悲劇ですけど、
それは解らないですからね。

た゜から、神様をおかげで選んではいけない。
最低限、ご挨拶をして、守護されないまでも、
ご挨拶はすべき。

それは、稲荷,へび神、龍神すべてすべきです。
産土や鎮守だとかいうなら、仕方ありません。

街で人に会いまして、挨拶をしない。
それより深刻な事態になることもあるということです。

自ら、敵を作ることはないのです。
私が言いたいのはそういうこと。今日は長くなるのでこれくらいにします。

いつまで、教団や古いやり方ににこだわるのですか。
教団は確かに人がたくさんいるから力がある。
しかし、悪いもの、弊害も多い。
お金、家庭崩壊などなど。

だから、いけなくなった人は個人で信仰すれは゛良いのである。

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