人生の時間は限られている。その中でいかに成果を出すかが勝負。 | 明主の浄霊・救霊ブログ

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いかなる状況にあろうと、私は見捨てない。死にそうな人。入院中の人。信仰をとがめられている人。精神病院に隔離されている人。神様や仏様は信じられても、教団にそぐわない人。死ぬのが怖い人。生きるのがつらい人。皆私を頼りなさい。

テーマのごとく言うと、なんとこの人は冷たいとか
なんとこの人はひどい人だ。

プロセスと言うものがあるではないか
もちろん否定はしないが、世間様は結果や成果で評価する。

だから、僕みたいに無理やり人に幸せを
譲らされた人は、悲しい人生になりますよ。

宗教で幸せになるのはいいのですが
不幸になる悲しい想いをするなら
しない方がましかもしれませんね。

先日、ミュージカルを見まして、四季カレンダーを
買いました。芝居が終わりまして、
座席の前の方に転がったものを
前の席のおばさんが、忘れているからプレゼントだろうと
半分冗談で言うので、それは僕のものだ。
チャント解ってますよ。と答えました。

人なんてそんなものです。

結局は、自分が、かわいい人が多い。

人生には限りがあるのです。

ただ、欲張るのは良くないにしても
譲るということは、ある程度豊かになった人しか
無理な行為ですね。

跡継ぎ話などを譲るのを強要されたら、
功徳は積んだかもしれませんが
僕は一生文句を言うことになる。

それはそうです。何十年に一度しかない奇跡ですから。

しかも、産土の神様が苦心惨憺して作った仕事ですから
それを何度もと言うのは無理がありますね。

後から、取り返せばいい。
現実に取り返せてません。

人生は、一度しかないわけですよ。
生まれ変わりはあるにしても。

来世幸せになって何になります。

今世幸せになるべきです。

若いときに、仕事をして、結婚して
子供を作り育てて、人も助けてなんてしないと
行けないわけですよ。

自分の人生の悲惨な末路を誰が望みますか。

いくら、悟りの邪魔になるから
女房、子供はいらんと言うのは
極端すぎますね。

だから、負け組は大したことはできません。

悲しいが、それが現実です。

だから、成功しない限り、人まで導くのは
かなり難しいということになります。

成功していたら、あの人のようになりたいと
思いますね。

だから、自然と人はよってきます。

逆に、人生の時間が少ないから、今人を救えと言われても
実際、大したことがない人には、大したことない人しか
助けられませんわ。

貧乏人が寄り集まった教団なんて
本人は幸せかもしれないが、
家族や周りの人は何と思うでしょう。

それも、新興宗教の嫌われるゆえんの一つです。

広島には有名なこじきの広島太郎さんと言う人がいますが
彼も良く考えてみたら、バカな人生を演じているわけです。

どうやら、女性関係がらみらしいですが。

彼の心のうちは解りませんが、
悟りを得たのかえないのか知りませんが
面白くない人生を彼は浪費しているとしか
僕には思えませんよ。

お前もその口だといわれたら、
そうだと言うしかないかもしれないが。

私は、親がいつ死んでもいいように
自分なりに考えて、行動し、道を求めたり
していますが、彼はおそらく何も考えていないはず。

おそらく、彼を救える人はお釈迦様クラスでないと
無理だと思います。

有名な大燈国師は、鴨川の橋の下で座禅を組んで
乞食の仲間になっていましたが
それとは大違いです。

大燈国師は悟った後で、乞食になりました。
そして、より思索を深めました。
しかし、広島太郎さんはおそらく悟ってはいまい。
同じ、乞食でも大違いです。

人助けするには、その人が健康である程度豊かにならないと
いけませんよ。

そうでない人が、人を助けるなんてことは
本当はとんでもない無理難題なんです。

上から目線で、人を救えはいけないということです。
その人のところまで降りてきて
同じ視線で、救えならまだわかりますが、
人を救うことの方が重要だから仕事をさせないとか
取り上げるとか、それは神様でもしてはいけないことですよ。

前にも言ったように、植物ではないので食べないと
生きていけないし、一人では生きていけないわけですから。

人生のなかで、ちゃんと、最高のパホーマンスを
出さないといけない。

そのためにもがいている人を、無理やり宗教などに
引き込む必要はないでしょう。

それが、新興宗教の良くないところなんです。
マスターペーションみたいなことばかり
しているのが、ないと言えばうそになる。

神様、仏様は、立派な伽藍は望んでいません。
そんなものを、立てたりするから
人からお金を巻き上げなくてはならなくなる。

建物を建てて、神様は喜ぶかと言うと
そんなことはありません。

むしろ、天理教教祖様の小説にあるように
逆に、信者さんから、距離ができてしまい
本当に残念だと思われるようになった。

それが、神様、仏様や教祖様の正しい姿です。

ちゃんちきちんと、拝んだり、人として正しい行動をとって欲しい
程度のものです。

坊主は乞食であるように、教祖様クラスは乞食の気持ちを
失ってはいけない。

立派な袈裟や恰好にこだわる必要はない。
そんなことをするから、ますます、金が要る。
そしたら、人をだまして金を巻き上げる必要が起きる。

いい循環になりませんね。

まずは、学生のときはしつかり勉強やクラブなどをし、
社会人になってからは、チャント仕事をして
結婚して、子供を作り育てる。

それが当たり前の姿なんですよ。

いびつな人生を歩んだり、強要されるのは
実に迷惑な話です。

信仰しない自由もあるが、信仰する自由もある。
来たい人は宗教団体に入ればいいし
入りたくない人は、入らなくてもいい。

無理やり、お導きと称して、巻き込むのは
やりすぎですよと言うことです。

さりとて、天理教においても、庄屋さまの息子だった
秀司様は、紋付き姿で、天秤棒を担い商いまでする事となり、
こかん様に至っては、大阪で布教活動をさせられました。

さぞ、お辛かったと思います。

ただ、こかん様は、ほとんど路上パホーマンス中心
でしたので、案外面白いこともあったでしょうが。

それをみんなにしなさいと言うのも、
何ともない人もいれば、辛い人もいるわけですから。
いろいろなんですよ。

ある程度、煮詰まってきたならば、人を救いたい気持ちも
現れることでしょうが。

そうなってない人に、強要するようなところが
ありますのでね。

また、導かれる人も、何の意思もないのに
無理やり入らされて、
お導きをしろ、できないなら金を出せ。
金がないなら、体を使えなんで。

なんでやねんということもないことはないです。

そんな、有様なので新興宗教は嫌われても仕方ありません。

今日はこれくらいにします。
いつまで、教団や古いやり方ににこだわるのですか。
教団は確かに人がたくさんいるから力がある。
しかし、悪いもの、弊害も多い。
お金、家庭崩壊などなど。

だから、いけなくなった人は個人で信仰すれは゛良いのである。

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