宗教は死人の物でもないし、死人を弔う存在でもない。 | 明主の浄霊・救霊ブログ

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いかなる状況にあろうと、私は見捨てない。死にそうな人。入院中の人。信仰をとがめられている人。精神病院に隔離されている人。神様や仏様は信じられても、教団にそぐわない人。死ぬのが怖い人。生きるのがつらい人。皆私を頼りなさい。

生きている人がいかに生きるか
そのために宗教の存在意義がある。

それを、葬式仏教の悪弊で
宗教イコール死者のもので
生きているものは関係ない
それ自体が、じつに傲慢な考え方である。

葬式仏教になったのは
坊さんが生活するために
盛んになったに過ぎない。

お釈迦様は葬式仏教など
解いてはいない。

摩訶迦葉の母親が地獄な落ちていて
施餓鬼を始めたら、救われたという話はあるが
それ以外はほとんど伝えられていない。

仏教の場合は、解脱を目指すのが
最初の目的でした。

ところが、どんどん複雑となり
大乗になり、それから
救済のためには何度でも生まれ変わるべきだ。
そのような心にならなれければ
本物の悟ったものではないと、
そういう風に、発展していった。

日本人は神道において祖霊を祭る習慣があったが
それとても、今日のような供養ではなく
お祭りだった。

山に帰った魂を祝いこそすれ
供養するなどと言う発想ではなかった。

そのことは、山田雅晴先生の本にもちゃんと出ています。

宗教は人生の羅針盤であり
生きている人のものです。

いかに生きればよいか。
この苦しい現界をどのようにして
生き抜くのか。

つらいことをいやすのか、それが宗教の目的です。

もう一つの目的は、道徳や倫理などの
土台となることです。

宗教は弱いものが頼るものであり
私には必要ないも傲慢な考え方だ。

必ず、自力では限界がやってくる。

なぜ、宗教が嫌われるか
それは、金取りだの、目に見えないものは信じないという
バカげた人や、傲慢な人が言うことです。

後、狭い視野のものが、宗教通しで争ったり、
時には、血の流し合いにまで発展することもある。
そんなことが繰り返されるので
宗教が嫌われることになっただけです。

新興宗教においては、ほとんど、金取り主義ですから。
金の切れ目が縁の切れ目になるのも事実です。

そのことは否定しませんが、宗教を信じない自由と同じように
信じる自由もあるわけです。

営業の鉄則では、宗教の話は争いの元になったり
嫌われるのでするなと言うわけですが、
それにも限界があるわけです。

特に、浄霊などをしている人は、とぼけているのが
大変、難しい状況もあります。

ほとんど、無理難題の陽に絡まれたり
いろいろ、あるわけです。

目の前に、不健康な人がいて助けないでいる
ことが、正しいおこないでしょうか。

本人が嫌うがどうか聞いて、嫌がらない場合は
宗教のことをしゃべらないでいることが
不可能な状況にも実際直面します。

僕の学生時代の友達が、何度も訪ねてきて
うんざりしたことがあります。
その原因は、僕が友達の家を訪ねたとき
せっかくだからと、簡単なお経をあげたせいもありますが。

そんなことをしなくとも、お光を掛けていたら
助けてもらおうと、その人のご先祖か
守護霊さんかわかりませんが
必死に連れてくるケースもあるわけです。

それならお光を掛けなければいいではないかは
バカな話です。

どういう意味かと言うと、霊媒体質の人には
お光を失うことは、悪霊のしたい放題される
感じになりますので、
掛けないわけにはいかないこともあるのです。

何が言いたいかと言うと、時と場合によって
とぼけることも無理だし
とぼけたりしたら、何度もしつこくからまれて
困るケースもあります。

実際、たまたま、他人の交通事故などに遭遇した時
救急車が来るまでは、浄霊はできますが
その後、病院までいけると思いますか。

私にもしなければいけないことはあるし
救急隊員が来たらねそちらに渡すしかないでしょう。

何か、変なことをしていると、疑われたりしたら
たまらないでしょう。

交通事故に遭遇した時、時間がなかったので、僕が陰ながら
浄霊をしなかったら、いかりまくられたこともあります。
そんな人は、自分の命が短いのが解るからかもしれません。

そんなこともありました。

お光を掛けるというのは、プラス面もマイナス面もあるということです。
また、責任も重くなるわけですから
幸せなのかどうかは、解かりません。

ただ、知らないでいると、どんどん魂は曇ってきますし
脳みそなどには、薬や、汚れた血や、いろんな霊とか
相手からの念とか、そんなものがこびりついています。

ほおっておくと、脳みそなどにはたくさんおりがたまり
それがもととなり、思考力は鈍り、時には病気になることもある。

なので、浄霊の概念が解らない人は仕方ないが
知ってしまった人は、決して、元には戻れないのです。

骨付き肉などをぐつぐつにたら、どんどんあくが出てくると思います。

浄霊をしてもしても、なかなかあくがでなくならないのと
同じように、出てくるものなんですよ。

だから、出たら取るを繰り返すしかないわけです。

また、お光は神様の御霊の憑代でもあります。

お光を掛けないで、神様にかかられた場合
気違いになる可能性も大いにあるわけです。

それを回避するためにもお光と言うものは必要なのです。

ただ、浄霊だけでは、洗剤を掛けただけです。
効率的に落とすためには
祝詞をあげることにより、流れを作る必要があります。

つけ洗いと、洗濯機の違いと言うことです。

では、洗濯機を真水だけより、洗剤入りの方が
より落ちますね。

その後、すすいだりして、きれいになるのですから
そういう意味合いです。

浄霊だけでは不十分であり、祝詞だけでも不十分なのですよ。
ちょうど、車の両輪みたいなものです。

どちらが、欠けてもろくなことにはなりません。

今日は長くなるのでねこれくらいにします。

いつまで、教団や古いやり方ににこだわるのですか。
教団は確かに人がたくさんいるから力がある。
しかし、悪いもの、弊害も多い。
お金、家庭崩壊などなど。

だから、いけなくなった人は個人で信仰すれは゛良いのである。

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