霊能力より大切なことは、今いかにして生き抜くこと。 | 明主の浄霊・救霊ブログ

明主の浄霊・救霊ブログ

いかなる状況にあろうと、私は見捨てない。死にそうな人。入院中の人。信仰をとがめられている人。精神病院に隔離されている人。神様や仏様は信じられても、教団にそぐわない人。死ぬのが怖い人。生きるのがつらい人。皆私を頼りなさい。

こう言うと反発する人がいる。

また、先祖供養も適当でいい。

生きていてこそ魂の進歩向上発展がまで
できるのである。

太く、短くと、秀明会の青年で
良く言う人がいた。

しかし、私はそれは誤りだと
何度も指摘してきた。

太く短くできる時だけすればいい。
そう彼らは話していたが
そうは、問屋が卸さないのである。

どういう意味か。無理をして
人のためにいろいろ、心づくししても
全く理解されないばかりか
ずっと太いままで、いろとか死ぬまで
おみこしにぶら下がる先祖などの
ろくでもない方の霊が多いわけだ。

やらないと、ひどい目にあわしたり
彼らは平気でするものだ。

ある人が破産した。
彼は親の徳分を食いつぶしてきたのだ。
本人は反発するだろう。

お母さんは実践倫理をかなりされていたから
要領よく立ち回ったこともあるが、

信じられないような、所に縁ついたりした。

倫理のことを彼は悪しざまに悪く言っていたが
実は、子の代で返してもらっていたわけだ。

幾ら頑張ろうと返してもらえるのは、せいぜい子の代か
生まれ変わった後だ。

そのように、親の徳を食いつぶすものもいれば
徳を積む人間もいるのだ。

しかし、生きていてこそ、家が続いてこそ
先祖なども長く恩恵があるのである。

本人が悟らずして、霊界は決して
許されるものではないのだ。

家が続けば、たまにものすごい人が生まれる
事もあるが、自分の代でつぶしてしまっては
何の意味もないことが理解できないようだ。

目先の、快楽を求めるのは良くないと
生きているものには強要し
死んだ者はそれを求める。

一番の先祖供養は、霊界法則を
折に触れて、言って聞かせることである。

時には、救霊をすることもあっても
それは、お盆とか、お彼岸とか
命日とか、何回忌とかでいい。

もちろん、御食などや花を供えて
祈ることはいいかもしれないが
必要以上に供養しなくていい。

神仏のご開運と先祖の解脱を
祈れば、それ以上する必要はない。
今日は長くなるのでこれくらいにしょう。

深見先生などは、この世をいかに生きるかを
教えてくれる。

それを、教団や先祖供養にこだわるバカは
執拗に妨害することがある。

それは、ずいぶん迷惑な話だ。

学ぶべきは、過去の宗教ではない。

今、いかに生きるかを学ぶ方が
よほど、私たちのためになる。

他人を誹謗中傷したと短絡的にとって書き換えたり
削る行為は、絶対しないでほしいものだ。

徳分というのは、厳然と存在する法則なのである。
積善の家に余慶ありとはそういうことだ。


いつまで、教団や古いやり方ににこだわるのですか。
教団は確かに人がたくさんいるから力がある。
しかし、悪いもの、弊害も多い。
お金、家庭崩壊などなど。

だから、いけなくなった人は個人で信仰すれは゛良いのである。

明主の浄霊・救霊ブログ$明主の浄霊・救霊ブログ