悪魔や悪神は本来いなかった。 | 明主の浄霊・救霊ブログ

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いかなる状況にあろうと、私は見捨てない。死にそうな人。入院中の人。信仰をとがめられている人。精神病院に隔離されている人。神様や仏様は信じられても、教団にそぐわない人。死ぬのが怖い人。生きるのがつらい人。皆私を頼りなさい。

こういうと、何を言うか悪魔はいると。
悪神はいるという人がいる。

確かに、いますが、その神々はもともと
悪神ではなかった。

善と悪というものが存在すると思うからいけない。

最高の神様がどうして、信者から金を巻き上げて
一家離散させたりすると思いますか。

教団に騙されているのですよ。
上の人がいい生活するだけです。

神様商売をしているわけですよ。

だから、宗教団体は本来の真理などからは
離れてしまっています。

そのことは、山田雅晴先生も太田宮司も指摘しています。

悪神というのはほとんどが、戦に負けて征服された
神々が多いです。

稲荷などがいるではないか。

それも短絡的です。

稲荷にしても、たちが悪いのは、欲に目のくらんだ
人間が、稲荷や狸の霊になったやつです。
行者狸というのがいる。

管狐にしても、式神として使いまわしておいて
なんの感謝もないし、何の褒美もないから
たたるわけです。

龍神さんにしても、ご眷属にしても
同じことです。

つまり、人間の心がよくないから
それらのいびつな霊界が形作られたわけです。

反省すべきは人間なのです。

稲荷さんには、挨拶だけしとけばいいのです。
失礼にならないように挨拶だけはする。

さんざん、使いまわしておいて
お礼もしない。

それは、人間で考えたらわかるでしょう。
ただ働きさせられて面白くないでしょう。
ですから、悪いのは人間の方です。

神様は神様なので、ご挨拶だけしておけば
それでいいわけです。

それを、教団の神様だけを信じるものだから
何だこいつになるわけね。

自分から世間を狭くしているようなものです。

明主様は最高の神様という考えは捨てるべきです。

最高の神様ならば、なぜ、たくさんお導きした人や
僕等がいまだに不幸なのでしょう。

最高の神様ならば、私が普通の暮らしぐらい
させてもらっていると思いませんか。

それができてないということは、
私にも原因があるにしても
大したことがない証拠でしょう。

明主様は悟ってなんかいない。
どこまで、わかっていたかも怪しいものです。
明主様は観音様に使われていただけの話です。

ですから、悪神はいないと思って、
要領よく生きていくしかありません。

曲津神だから、曲がっているだけで
打ち捨てない。

曲がっているものは、できるだけまっすぐにする。
どうしても治らないものは、それは屋根などの梁などにする。

昔の住宅はそうでしたね。そのように、曲がったものでも
用途があれば用いればよいのです。

それが、神道のあり方です。
神道は布教などしないし、修道院も教団もない。
ほとんどの人は、なにがしかの仕事をしています。

仏教にしてもいま日本でしているもの
お釈迦様が教えた者ととは
大きく変わっています。

だから、今の仏教が正しいと思うほうがどうかしている。

どんどん、難解になり、誰もわからなくなった。
禅宗に至ってはたくさんの気ちがいや
野天狗、野狐を生んだのである。

それで、念仏によって救われようという
ことになってきた。

頭で、何もかも考えて解かったような気でいる
それが間違いのもとだ。

心で、魂で理解するのが本来の宗教のあり方である。

死んでから、学ぶものではないのである。
葬式のために仏教はあるのではない。

本来、いかに苦しいこの世を生きていくか
そのためにあるものである。
今日は長くなったのでこれくらいしょう。


いつまで、教団や古いやり方ににこだわるのですか。
教団は確かに人がたくさんいるから力がある。
しかし、悪いもの、弊害も多い。
お金、家庭崩壊などどなど。

だから、いけなくなった人は個人で信仰すれは゛良いのである。

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