お光を掛ける必要性 | 明主の浄霊・救霊ブログ

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いかなる状況にあろうと、私は見捨てない。死にそうな人。入院中の人。信仰をとがめられている人。精神病院に隔離されている人。神様や仏様は信じられても、教団にそぐわない人。死ぬのが怖い人。生きるのがつらい人。皆私を頼りなさい。

そもそも、なぜお光を掛けるのか。
お守りの概念もある。
しかし、精神の異常をきたすと私は書いた。

どういうことかというと、大本教の教祖
出口なおさんが、うしとら様がかかられたとき
ものすごい形相で、声も猛々しくなり
恐ろしかったという。

それはそうだ。
何千年もとじめられていた神様であるから
勇んでお出ましになったわけだから。

天理教の中山みきさんもそうだったようだ。

神ががりすると普通の人からは
精神異常者にしか見えない。

実際に、中山みき様は牢屋に入れられたりした。

ましてや、現代においては
精神医学も発達しているため
精神病院に入れられてしまうのがおちだ。

あるいは、精神安定剤を大量に処方され
その人は廃人のようになってしまうかだ。

それらを回避する方法として
お光はあるということだ。

2つの人格が、主導権争いをして
何ともない人はいまい。

直接、神かがっても、平気でいられるのは
相当な修業を積んだものにしかできない。

だから、犬のかんさつみたいに
考える方がどうかしているのだ。

秀明会の場合は異常であったが
髪の毛が入ればお詫びだの
ろくなことはなかったが。

それくらい、大切にすることは
神様の憑代であるなら
考えられるだろう。

ただの、紙切れに書いた文字と考えるから
異常だなどというわけだが、
私などはお光賭けにまともに掛けたことなど
ほとんどない。

桐の箱がないときは、段ボールの箱に
半紙をいてをしょっちゅう多用していた。

銭湯や散髪に行くときは、外していけば
何の問題も起きまい。


その間に、霊が突く可能性はあるが、
それ以外、何もない。

車に引かれたり事故の時は
掛けていたとしても、お詫びになるのが関の山。
命が助かることもあるだろうが
楽しくないお詫びが待っている。

ウソをついてごまかすやつが出たのも
仕方ないことだ。

実にくだらないことを書いたやつがいる。

いずれにしても、ひょうれい現象が
起きて精神に異常をきたす可能性は
相当高いのである。

お光はそうならないための方便でもあったのだ。


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