【歴史】橿原神宮の文華殿特別公開~織田有楽斎を感じて | 日本文化って素晴らしい!~茶道・着付け教室in世田谷

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皆様、こんにちはおねがい

前回のタイトルは、「橿原神宮の御本殿拝観」だったのに、私はそのことについて何も触れていませんでした。ゴメンナサイあせる
来年2016年4月3日には神武天皇二千六百年大祭がある為、神武天皇とそのお妃様をお祭りしている御本殿は檜皮屋根などの修繕をするため、2柱の御祭神にはいったん前方の建物(幣殿)へお移りいただき、御本殿が空になる10/5~11/30の間に、御本殿の修繕&特別公開されることとなりました。
明治23年の創建以来初めての御本殿特別公開ですビックリマーク
私が行ったのはたまたま11/30だったので、その初公開にあずかることが出来ました。ラッキードキドキ
ですが、聖なる神域なので、写真撮影はもちろん禁止ショック
皆様に写真でご紹介することが出来ませんあせる

が、同じく特別公開の重要文化財・文華殿がなかなか素晴らしかったので、こちらをご紹介します旗

文華殿の玄関↓



文華殿は、天保5年の建築で、現在の奈良県天理市の柳本藩の藩邸のうち、もっとも主要な大書院と玄関の一部だったものを移築したものですが、昭和40年の移築当時は柳本小学校の校舎として使われていたそうなのです。(柳本小学校時代は、明治10年から昭和40年まで。結構長いっあせる
柳本藩は、あの織田信長の弟・織田長益が関ヶ原の戦いの功績として、徳川家康から拝領した土地で、廃藩置県まで代々織田長益の子孫が治めていました。
だから、瓦も『織田木瓜』と呼ばれる家紋が付いています。

『織田木瓜』↓
木瓜(織田木瓜)
ほら、同じ家紋!⬇


そして、その織田長益は千利休に師事し、利休十哲の1人にも挙げられ、有楽斎と号します。
そう、あの国宝のお茶室・如庵を作ったことでも知られ、茶道・有楽流の創始者でもある、有楽斎のことです!!
有楽斎は茶道の世界では知らない者はなく、有楽斎が考案した有楽棚や、有楽斎が所有していた為、有楽井戸という銘の大井戸茶碗や、有楽斎が好んだことから有楽椿と呼ばれている椿があります。

その有楽斎の流れを汲んだ建物文華殿はなかなか洒脱なのです音譜

大書院↓


廊下にも畳が敷き詰めてあり、約100畳の広さ。江戸城の大書院を真似て作っていて、大きさは江戸城大書院の約1/5だそう。つまり、江戸城の大書院は500畳の広さだったのだビックリマーク
ちなみに柳本小学校時代は、右の部屋(几帳のある部屋)は理科実験室、真ん中の部屋(漢字の屏風のある部屋)は理科標本室、左の部屋(襖の前の部屋)は音楽室だったとのこと。

襖の奥には、中段の間、さらに上段の間があり、織田家のお殿様がここに座っていた↓


遠くてぼやけていますが、お床のお軸は、昭和15年の紀元二千六百年記念行事(神武天皇即位紀元2600年)の際に、茶道裏千家十四世家元淡々斎宗匠が書かれたもの。
ちなみに柳本小学校時代は、中段の間にはピアノを置いていたそう滝汗
欄間が素晴らしい。こんな欄間のある小学校ってなんなのかしら~汗
今でも当時の卒業生はここ文華殿で同窓会をするそうです。すご~いっガーンビックリマーク

大書院前の庭園↓


日本を代表する造園史家森蘊(もりおさむ)博士が、昭和42年移築当時作ったもの。
大和の国中の風景をイメージし、木々は低く抑え、陽光が庭に入るように工夫しているとのこと。
庭の苔や小山は、実は大和の国の地形を表していて、縁側に立って庭を見渡すと、まるで神様が雲の上から大和の国を見下ろしている感じになる、というのだ。
神様目線を体験できるなんて、スバラシイキラキララブ

垣根も美しい↓


この特別公開は既に11/30で終了しているので、この文華殿が再び公開されるのはいつになるかは分かりませんが、神宮側は当初1万人くらいを予想していたのが、倍の2万人が拝観したとのこと。
みんな見たいのですビックリマーク
是非また特別公開してくださーいっキラキラ
お願いしまーす!!

meisho