人間であれば、この世に於いて何某かの自分の希望、思惑、その他願望が通る時と言うのを、きっと誰しもが体験する事と思います。その時人間は「やったー!」と心の中で雄叫びを挙げる事でしょう。
では、この場合を例に取り、逆の立場を見てみましょう。つまり「やったー!」の裏側に存在する人です。この方は自身のその「やったー!」を通して、所謂幸福感を味わうのでしょうか?結論からすれば、「否!」であると言わざるを得ません。ではこれに対する対策は有るのでしょうか?今回はその部分に焦点を当て見てみようと思います。
前置きが長くなりましたが、人間がその思惑、或いは願望が通る事により「幸福感」を感じるのは周知の通りだと思います。
では、その裏側の存在。つまり、自身が「やったー!」と雄叫びを挙げた場合に所謂それにより「損」を味わう場合、或いは何某かの悲しみを感じてしまう場合。往々にして蔑ろにされるのが、その「損」を味わう側なのです。つまり、人間願望が通ってしまい、自身さえハッピーになれれば、後の事はどうでも良い。そんな考えの元、場合によって人を傷心させ、悲しませ、痛ませ、そうしている内にその目の前からその相手は自身のその言動が原因で、そこから一人また一人と姿を消して行く訳です。
何が言いたいのでしょうか?例示を以て具体的に解説して行きましょう。
たとえば、順番抜かしが成功した場合、抜かした側は当然その言動により「やったー!」と言いたくなる訳です。はたまた、自身が逆に何某かの要因により傷心して、それに対してその要因を取り除きたい一心で「チッ!」と舌打ちして、それにより相手が一瞬怯むとしましょう。その相手が怯む様子を見て逆転勝利を治めてしまう。つまり、舌打ちにより、相手を傷心させる場合。はたまた、これも然りではないでしょうか?相手がどう思おうと辺り構わず、喫煙し、それにより自身が満たされる時。この場合はその臭気によりより多くの人が所謂迷惑を被る訳です。
如何でしょうか?これらの言動や行動に思い当たる方は、おおよそ数多であると思慮されますね。こうした場合に、その言動の矢先に傷心する人、悲哀を感じる人、或いは「損」を被る人、あらゆる被害者がそこには存在する訳です。こうした被害者が抱くのは当然のことながら「反感」の二文字です。その「反感」の故にその人は大切な存在すら、或る時には亡失する訳です。こうなる前に是非!気付いて頂きたいのです。その「やったー!」の裏側に存在する、悲哀に満ちた表情に!そしてそれに気づくなら是非!その場でその行動を改めましょう!そして、間に合うならそれに「ごめんなさい。」と謝辞が付されるなら、それが結果的に「損」な事に見えても、逆に得策なのです。つまり、「損して得取れ」と言う事です。
故に私達は、思惑、願望等が通った時は、細心の注意を必要とする訳です。つまり、自己点検して、その!「やったー!」により傷つく人は居ないだろうか?はたまた今自身が「やったー!」と言いたくなった。その先に目をやるのです。これは本当の意味で、喜ばしい事象であろうか?と。それをするか否かによって、結果は異なって行くのです。相手の話に割り込みたくなった。その時割り込めた自分を思い出してください。「やったー!」と一瞬は幸福感に満たされるでしょう。しかし、その幸福感は本当の意味で長続きするでしょうか?はたまた、順番抜かしに成功した。「やったー!」でしょうか?自身の歩みが遅かった為に、後ろから人がやって来て自身を抜かす。その時怒りに任せて、一瞬で下だと判断した人間に対して怒りの鉄拳を振りかざし、渾身の力を込めて「チッ!」とやる。それで相手を怯ませられたら、それは本当の意味での「やったー!」でしょうか?
今一度考えてみてください。私達が何某かが成功して「やったー!」を発話する時、必ず!そこに犠牲となる存在が居るのです!是非!敏感に気づいてください!それに敏感に気づく人は、即ち、その分だけ人間性が磨かれ成長し、それによりその人は「輝く」のではないでしょうか?そうです!これが!本来の自身の成長を喜ぶ、真の意味の「やったー!」です!貴方のその!今の「やったー!」本当に大丈夫ですか?