「硫黄島上陸」酒井聡平(講談社) | 乱読家ぽちんの独り言

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【『プロローグ』より引用】

2019年9月25日。

戦後、日米の軍事拠点となり、民間人の上陸が原則禁じられた硫黄島に新聞記者が渡った。

それが僕だ。僕は、硫黄島発の電報を受けた側にいた父島の兵士の孫だった。

「祖父の戦友とも言える戦没者の遺骨を本土に帰したい」

13年前に一念発起し、政府派遣の遺骨収集団への参加を模索し続け、ようやく参加が認められたのだった。

僕の心には、あの電報があった。

「友軍ハ地下二在リ」

硫黄島の兵士たちは今も地下にいて、本土からの迎えを待っているのだ。

電報を信じ、地を這うように玉砕の島の土を掘りまくった。

結果、僕はこれまでにどの記者も挑まなかった謎の解明に、執念を燃やすことになった。

その謎とは。

戦没者2万人のうち、今なお1万人が見つからないミステリーだ。

【引用終わり】



「硫黄島の戦い」とは、一般的には戦争末期の1945年月2月19日から、日本側守備隊が最後の総攻撃を行った3月26日までの36日間を指す。

最高指揮官の栗林忠道中将が命じたのは、米軍の本土侵攻を一日でも遅らせることを狙いとした、一日でも長い持久戦。

守備隊は総延長18キロの地下壕を構築し、身を隠してゲリラ戦を展開した。

結果、守備隊2万3000人のうち、戦死者は2万2000人になり、致死率は95%に達した。


戦後、戦没者の遺骨収集活動は続けられているが、いまだ1万人が見つかっていない。

 

遺骨収集を所轄するのは厚生労働省。収集団は年4回、1回の派遣期間は約2週間。40名前後、60才以上の高齢者が多い。米軍施設で生活。旧日本軍が残した短いスコップを使って掘り起こす。有毒ガス、地熱による火傷、不発弾、噛みつくムカデなど、危険を伴う作業が続く。


滑走路直下の地下壕への調査。4人のご遺骨しか見つからず。


遺骨1万人が見つかっていない要因は「島の様変わり」「米軍による壕の閉塞」「先に遺骨を収集した日本兵の存在」「戦後初の遺骨収集はたったの3時間で幕引き」「遺骨収集再開までの空白の15年」「生存者証言の限界」「在島米軍兵士の盗堀横行」「ちらつく米国の影」。国は1959年に千鳥ヶ淵戦没者墓苑を整備し象徴遺骨で幕引きをしようとした。


戦後、秘密裏に硫黄島に核兵器が配備され、その間、日本人の硫黄島への渡島制限が続いた。




いまだに1万人の英霊のご遺骨が残る硫黄島。滑走路を剥がしてでも、できる限りの遺骨収集をすべきと考えます。

そして、将来は歴史的施設として、硫黄島は教育の場として残すべきと考えます。



「硫黄島上陸」酒井聡平(講談社)

【6月9日読了】

【オススメ度★★★★】