名著のすゝめ -8ページ目

自作の創作公開「羽衣幻想」



         第 二十四 回 目





  実家の両親も、思っていた通り、あなたから好い印象を受けて、とても善さそうな人だね。そ

う言って満足している風でした。善良で、気さくで、平々凡々とした両親。真面目に生きて、子供

の成長だけを唯一の生き甲斐にしている私の両親が、今、近い将来に、その人生のハイライトとし

て娘の結婚を考えている。その結婚によって娘の幸福な人生が保証されることを信じて。私は何と

しても倖せな家庭を築きたい、それだけがこの優しい父や母の恩に酬いることのできる、たったひ

とつの道なのだから。― そう改めて思った途端、また忌まわしいわたしの躯の事が、頭に浮かん

だのです。一種のノイローゼ状態に陥っていた私の目に、国東の磨崖仏たちは、わたしの心の地獄

を象徴する不吉な悪鬼の様に映りました。動揺している気持ちを猛々しく威圧する様に、脅かした

のです。ですから、あの夜、あなたの激しい愛撫を、堰を切った洪水のように、求めずにはいられ

なかった。あなたが、私の濁流に飲み込まれて、溺れてしまうまで。そして翌日、例の観音像に私

たち、対面したのね。あのお寺にたどり着くのに、随分と手間取って…、そう言えば、私達、国東

では何度も道に迷ったわ。そんなことまでが、当時の私には意味があることのように思えて、心が

暗かった。それがあの観音様、全部で五体あったうちの中央の、あなたも随分熱心に見てらした仏

様を、目にした時、嘘のように心が落ち着いているのに気がついた。お坊さんの翳しているロウソ

クの灯りが揺らめく中で、凛として立っている古仏。泣いているようにも、笑っているようにも受

け取れる表情。その澄み切った瞳からは、不思議な優しさが、漂い出ている。目の前の私を見てい

るように感じた視線が、実はずっと遠くへ、わたしなどには想像も及ばない遥かな時空の彼方に注

がれているのに気づいた時には、わたしの心は霽ればれとした、明るさを取り戻していました。 


 明石さんに私が初めてお目にかかったのは、九州旅行から帰って間もなくのことでした。駅で

「パパ」の帰りを待っている幸ちゃんの姿が二三日見えない日があって、その日も幸ちゃんに会え

ないのかと、寂しい気がしながら改札を出たのです。すると普段とは違った所、線路際の電灯の光

の当たらない暗がりに、幸ちゃんが立っていたのです。「幸ちゃんなの」、私がそう声を掛ける

と、それまで懸命に涙をこらえていた幸ちゃんが、私の胸に飛び込んで来た。理由を訊いても幸ち

ゃんは「パパにしかられる」って、何度も繰り返すだけで、ベソをかいているの。仕方なく、幸ち

ゃんたちの住んでいるアパートまで一緒について行って、「お部屋はどこ?」って言うと、二階の

灯りがついている部屋を幸ちゃんが指差した。





自作の創作公開「羽衣幻想」





           第 二十三 回 目





 暗い照明のもとで見る優子の顔は幽鬼の様に青白かった。以下は、低声で、しかしきっぱりとし

た口調で語った、優子の打明話の概要である。 ― 私には、好きな人がいます。三十四歳になる

板前さんで、五歳の 幸ちゃん と言う名の女の子が有ります。奥さんは三年前に病気で亡くなっ

たそうです。明石さんと言う、その男の方を私が知ったのは、丁度一年前で、幸ちゃんを通じてな

のですが、今では明石さんを心から愛し、真剣に結婚を考えています。まだ明石さんの意向を確か

めたわけではありませんが、私が是非にと望めば、多分異存は無いはずです。


 私、博司さんとの事では色々と悩みました。現在でも、完全に自分の気持ちの整理がし切れたと

は、思っていません。それどころか、あなたに対する私の愛情は、今後もその絆を断ち切ることが

不可能と思えるほど、強いものがあるのです。では何故、と多分あなたは仰有るでしょう…、正直

に言って、私にもよくわからない部分があるのです。無責任な様に聞こえるでしょうが、それが率

直な私の気持ちなのです。二年前、私たちが不思議な邂逅いをして、最初に結ばれた時、生理が二

ヶ月ほど遅れたのです。私は自分が妊娠したのだと思って、病院に行ったのです。嬉しいような、

恥ずかしいような複雑な気持ちでした。結局それは、単なる生理不順だったのですが、その時に診

て貰ったお医者さんの勧めで、精密検査を受けることにしたのです。あなたの身体は赤ちゃんの出

来にくい体ですって、告げられた時、目の前が真っ暗になる思いでした。こんな話をするのは嫌な

のですが、Yとの時は必ず避妊の手段を相手に要求しましたから、自分がそんな体だって、気がつ

かなかったの。


 その事があってからです、わたしが博司さんに対して引け目を感じ出したのは…。それに、Yと

の経緯も、私にとってはやはり重荷だった。あなたが優しくいたわって呉れれば、呉れるだけ余計

に、心のどこかで、それを負担に感じているのね。そんな時期だった、幸ちゃんたちが近所のアパ

ートに引っ越して来たのは。目のくりくりっとした、可愛い、でもどこか影のある、寂しそうな女

の子が、いつも夜遅くに駅の改札の所で、誰かの帰りを待っている。何度か顔を合わせているうち

に、お互いに顔を覚えて、日曜日だったと思うけど、ある日スーパーで買い物をしている幸ちゃん

に声を掛けてからは、すっかり仲良しになった。そしてたまにお休みで、私がおうちに居る時な

ど、遊びに来るようになったのです。それで、幸ちゃんが片親だってことを初めて知ったのです

が、幸ちゃんはとても五つとは思えないほど大人で、性質も素直ないい児だったので、「パパ」の

躾がしっかりしているせいだろうって、想像したのです。


 幸ちゃんが余り可愛いいので、自分も自分もこんな子供が産みたいなって、何気なく思った。で

も自分には…、先生は手術をすれば、全く可能性がないわけではないと、慰めてくださったけれ

ど、幸ちゃんみたいな子供は持てないのだと考えると、わたし堪らなく悲しくて。博司さんにも済

まない、って思うと余計に自分が惨めで…、あの九州へ行った時も、私、時々気が変になりそう

で、一緒にいる間中ずっと、昼も、夜も、あなたに抱かれることばかり考えていたのです。あなた

に激しく愛されたら、もしかして、何か奇跡のような事が起こって、赤ちゃんが出来るのではない

か、そんな馬鹿な考えが捨てきれなかった。あなたはいつものように優しい博司さんで、わたしは

一方ではそんなあなたに感謝しながら、もう一方では、どんな場合でも私に優しいあなたを、憎ん

でさえいたのです。





自作の創作公開「羽衣幻想」



         第 二十二 回 目





 翌日、静岡駅のホームで上りの「こだま」を待っている際に、「あの年賀状の方、お綺麗な女性

(ひと)なのでしょうね」、ポツンと、なんでもないことを訊くように、優子が言った。一瞬、質

問の意味が解らないでいると、今度は少し照れたように眼に笑みを浮かべて、「とても、綺麗な字

を書く人だったから、私、きっと嫉妬してるんだわ…」、冗談とも、本気ともつかない優子の言葉

の調子だったが、私の方は何故か一瞬ドキリとして、思わず顔が赧くなるのを意識した。和枝の字

は確かに達筆だったし、その賀状の末尾には、今度は夜を徹して酒を酌み交わしたい旨の事が記さ

れてあったのを、思い出したからである。私が慌てて、何か弁解しようとするのを、もういいの、

というように首を横に振って、「午後からは、もう仕事なのでしょ、大変ね」と優子がそっと付け

加えた。


 実際、三日の昼過ぎからは仕事始めで、正月気分などではいられない、戦場のような忙しさが

続くはずであった。優子を見送った後で、さっきはどうしてあんな風に慌てて弁解などしようとし

たのかと、頻りに反省された。今度会った時には、優子に和枝のことを落ち着いて説明して、あの

醜態を挽回しなければなどと、かなり真剣に考えていたのである。が、次に優子に会った時には、

そんなことは完全に私の頭から消えていた。和枝とも顔を合わす機会は勿論なかった。


 いつしか厳しい冬の季節感も薄れて、梅の蕾が綻び始める三月に入っていた。「九時ころに、優

子さんから電話があった」と、夜更けに酒気を帯びて帰った私に、居間で繕い仕事をしていた母が

言った。まだ帰っていないのを知ると、近いうちに会いたいので、そう伝言して呉れるように頼ま

れた。元気のない、淋しそうな声だったと、母は気遣わしそうに言い添えたが、私は大して気にも

止めずに二階の自分の部屋へ上がった。そう言えば、もう一ヶ月近くも会っていない。最近は交際

範囲も広くなっていたから、飲む方の付き合いもかなり増えていたのだ。それにしても、優子の方

からデートを催促してきたのは、初めてのことではないか?何か変わった事でも起きたのであろう

か、そう考えると俄かに胸騒ぎが始まった。自分の取り越し苦労で済むことを念じながらも、出来

れば明日にでも仕事を都合して、優子に会いに行こうと決心していた。翌日、私は強引に仕事を始

末して、夕方優子に会った。



 優子の指定した日比谷の喫茶店は、スペースが広く、座席もゆったりとしていて、落ち着いて話

をするのには都合がよかった。静岡を出る前に、優子の勤め先の方に電話を掛けると、応答した声

は優子のものであった。その日は大学は試験休みだから、会社が退け次第、近くで会いたいと言

う。その声の調子はいつもと変わっていない様に思われたが、昨夜からの胸騒ぎはまだ収まらなか

った。十分程待つ間に、淡いピンクのスーツを着た優子が姿を現したが、その表情を見た瞬間に私

は自分の恐れていたものが現実のものになったのを、直感していた。目だけは少し笑っているが、

頬の辺りの筋肉が引き攣るように強ばっている。暗い照明のもとで見る優子の顔は幽鬼の様に青白

かった。