中村城は、2013年に猛藪を踏み分け撮影・ブログにしているのですが、修論で扱うため構造確認に再訪しました。相変わらずの猛藪)でした。
記憶と違っている箇所も随分ありました…ので、整理しつつ更新します。
立ち入りにあたり、氷見市博物館の御高配を頂きました。ありがとうございました。
中村城
氷見の上杉使用城郭として氷見市教育委員会(2010)『中村城跡Ⅰ・森寺城跡Ⅱ』(1)では、湯山城(森寺城)と、臼ヶ峰越えで能登に通じる中村城(中村山城)が挙げている。
中村城は、史料は無いものの、高岡徹は城主伝承のある長尾左馬助を河田長親に付けられ越中に派遣されたた栖吉衆の一員(『上杉年譜』17)に見出し、上杉氏が越中西部を制圧した天正4年氷見地域撤退の同7年初めにかけて、一時能登に近い要衝守ったと推定し(2)、2001年に刊行された氷『氷見の山城』(3)の中で、縄張り構造からも上杉氏の築城技術が読み取れ、上杉支城の典型としている。
佐伯哲也も、2008年「縄張りから読み取る中村山城の歴史について」(4)、2013年『越中中世城郭図面集Ⅲ』(5)では、天正6~7年上杉氏による築城と比定している。
高岡先生が上杉城郭とする特徴は、
➀長い山上部を三段にもわたって削平し、それぞれに大規模な切岸を巡らしていること。
②二段目の郭群の外周に設けられた大規模な堀切。
③畝堀の多用。切岸下の傾斜の緩くなった中腹部を敵に利用させたいための防御上の配慮。
この他にも大小さまざまな堀切・竪堀が設けられ、防御施設全体として、氷見地域のなかでも際立った堅固さを示すとしている。
佐伯先生が上杉氏による築城の根拠とした構造は、畝状空堀群・計画的な通路・内枡形虎口の存在である。
中村城跡平面図(氷見市教育委員会(2010)『中村城跡Ⅰ・森寺城跡Ⅱ』、氷見市埋蔵文化財調査報告第56冊より切り取り、引用)
位置
註
(1)氷見市教育委員会(2010)『中村城跡Ⅰ・森寺城跡Ⅱ』、氷見市埋蔵文化財調査報告第56冊 (2)高岡徹(2000)「戦国期における上杉氏の越中在番体制とその展開」、『戦国期越中の攻防』、岩田書院p.84 (3)氷見市教育委員会(2001)『氷見の山城』、北日本印刷株式会社、pp.148-55
2013年記事(勘違いもありますが、城と私の変化の記憶として残しておきます)
|