妻籠城(長野県南木曽町吾妻妻籠城山) | えいきの修学旅行(令和編)

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 あけましておめでとうございます。

新年早々、大雪です。

家の前に土塁が普請され、出撃できません…。

 

 それはさておき、今年も大学院の過程を優先するため、濃いえいき記事は、お休みさせていただくことになります。

 しかし、らんまる攻城戦記に公開されていた妻籠城を読んでより、これは書かねばならないと心に掛かっていたので新年早々おおくりします。

 

 武田滅亡直前(天正10年(1582))までの武田の木曽美濃最前線として、2019年6月に田立砦を書いた。

 その時のまとめ

 畝堀などの付加は認められるが、武田最末期の高度な縄張設計やパーツ敷設といった武田上層の介入による普請の痕跡みることはできなかった。

 木曽は谷をもって守るというのが防御構想なのであろうか、木曽谷の入口にあたる田立口は、城郭で阻止するといった意志や、武田末期の鬼気迫る様相を遺構から感じることはなかった。 

 しかし、武田(木曽)が防衛拠点として想定、待ち構えていたのは、田立砦から木曽約5.6kmに入った妻籠城のようだ。

 なので、書かなければならない。

妻籠城

木曽川に面し、美濃と飛騨、伊那から街道が集まる要衝である。

 美濃からの侵入を、この妻籠城で防いでいれば、木曽と伊那からの後詰が可能である。仕寄るにはもともと谷で軍勢展開には不適な地形で、かつ、渡河しなければならず、信濃からの後詰軍勢と川と妻籠城とに包囲される恐れのある地勢にある。

 宮坂武男(2013)『信濃の山城と館7』によると、天正12年の小牧長久手の際には、秀吉についた木曽義昌が山村良勝を守将に徳川勢に籠城、それを撃退した。また、慶長5年(1600)9月、美濃へ急ぐ徳川秀忠率いる徳川本軍が、ここで関ヶ原の戦勝を聞いたという。

 主郭は土塁と帯郭が囲い北東尾根に郭2、3を置く。2,3の間の堀切から南東に降る中山道に至るルートが大手のようで、堀切で厳重に守られた高所に郭4を置き、4は出城のように中山道に備えている。

 

腰曲輪から郭1の北出入口へ

腰曲輪を設けることで、郭1の土塁と相まった切岸が防御を強固にしている。

 宮坂先生は、珍しいとして、主郭の辺縁下より3~4m下に幅1~2mの腰曲輪(武者走りとも)が取り巻いて、曲輪間の連絡や切岸を急にする効果を高めているとしている。

 

1北出入口

 

妻籠城主郭

 

1内は整備されている(他は結構な薮)

後背の山は愛宕山。

 

木曽側眺望

 

美濃側

 

1は土塁が全周する

 

説明板の裏に西出入口2箇所(現況通行不可)

西の出入口

 

西のおそらくもう1か所の出入口

 

南の出入口

 

北の出入口

 

 

西の腰曲輪

腰曲輪は、なかなかな藪。

 

 

南西の舌状平場

下方に堀切。

 

その下方の堀切

堀切の先に竪土塁あり。

 

竪土塁

 

 

中山道に繋がる大手方向

 

 

北出入口から腰曲輪をひっかけつつ東尾根へ

 

通路用途の腰曲輪も巡る

 

堀切を土橋で通り、カーブし下に郭2

 

土橋南の堀

 

土橋北の堀

 

郭2

辺縁下は中山道からの遊歩道が通る堀切で、郭3(堀側に高所設置)と隔たる。

堀底通路は両郭の挟撃を受ける。

 

2から堀越しに郭3

3は高所の下方。

 

2-3間の堀南方

中山道からの遊歩道が通る

 

2-3間の堀北方

 

 

郭3

宮坂先生は右側に虎口状の掘り込みを描いているが、踏み込めず。

 

 

中山道に備える郭4

 

土橋の先の高所が郭4

 

土塁で喰い違った先が4

 

喰い違い土塁上から4

南東辺にも土塁を盛り、その下方に堀切。

中山道への備え。

 

4南東土塁下堀切

この堀切は前面に土塁を盛る。

中山道への備え。

 

北東

ミニ竪堀2条付随。

 

ミニ竪堀

 

南西下方には湾曲する横堀ー竪堀ライン

 

 

喰い違い土塁から北東に尾根筋があり、堀切を二本入れて備えている

 

ミニ堀切

 

堀切

 

 

登り口

ここ

 

 田立砦記述からの使命感で、撮影、ブログにしたが、思いのほかの藪に開口した。

 

 参考文献

 宮坂武男(2013)『信濃の山城と館7』、戎光祥出版、pp.507-9

 

引導記事