論文書き中ですが、奥三河の小城郭を投稿します。
小田城
小田集落背後の標高703m(比高100m)の山上に築かれている。
城の西(左)側を菅沼から笠井島へ抜ける道があり、その道を東方から守る城のようだ(1)。
作手村史によると、城主は奥平貞勝の次男源五左衛門常勝で、永禄8年武田方となり、後に作手に帰ったが家康に自刃させられたとある。永禄8年(1565)というとかなり早い。亀山城よりも約12km北東に位置し、鳳来寺道、田峯境に近い。それだけ武田の脅威に近いということか。
登り方(2019.3.10上写真とともに改訂)
ここから柵沿いに山に踏み込む
1分ほどで、右に洗心荘。
私の足で9分で横堀到達。
小田城縄張図(『愛知県中世城館跡調査報告Ⅲ東三河地区』より引用)
城の東、緩傾斜の尾根筋に向かって横堀が二重に張られている。主郭周囲を一重目横堀ー帯郭が周回する。この横堀構造を見るために原田先生に同行願った。
主郭と一重目横堀からは、東尾根筋(幅広く尾根とはいわないかもしれない)を俯瞰できない。二重目横堀線が、尾根筋に対して射撃(弓・鉄砲)位置を占める。二重とも、身長以下の深さで、遮断線というよりは塹壕状であり、二重目の横堀はまさに射撃陣地であろう。二重目は北に竪堀としても掘り下げているように見えた。
主郭北東部に、堀込の痕跡らしき窪みがあり、その下方、帯郭の角に石積が見られた。出入口造作に関わる構造であろう。
帯郭が周回する。
峠道は、南から外側の横堀に入り、いずれかの方向の尾根に抜けたとする高田徹の説もある(2)。
小田城主郭
祠が祀られている
しかし、主郭に至る道は滅していて、祭祀が継続されているかはわからない。
北東部の窪み
下方に石積があり、出入口造作に関わる堀込みの痕跡であろうか。
堀込み下方、横堀ー帯郭ラインに石積
原田先生をスケール利用。
積んでいる
作手賽之神城、日近城、名倉寺脇、清水、鍬塚城にも石積と堀込出入口造作を見ることができる。
奥平一門の、格式であろうか。
石積付近から北、帯郭
一重目横堀、というかこのあたりでは帯郭か
一重目横堀南部
私の目的、小田城の横堀
祠の前に一重目横堀
書き込むと横堀線が文字で埋まるため避けた。
主郭辺縁から
二重横堀線と東尾根筋
主郭からは東の尾根筋は見通せない。
一重目横堀
原田先生に測量ポールを持っていただく
80cm程度なので、1mに満たない胸よりも低い構造であろう。
一重目横堀前面土塁
一重目横堀から二重目横堀
主郭同様、一重目からも東尾根筋を俯瞰できない。塹壕状ではあるが、前面土塁を胸壁とした射撃陣地としては使えないと考える。主郭を守る横堀であり、東尾根を俯瞰、射撃するにはもう少し東に出なければならない。それが、二重となった理由であろう。
二重目横堀
もう一枚(二重目横堀)
二重目横堀から主郭方向
一重目横堀の塹壕状況が明瞭。兵が隠れていそうである。
前面土塁は一重目同様80cm程度
塹壕状、かつ射撃陣地と成り得る。
東尾根斜面から城方向
原田先生が嵌っているのが二重目横堀。
塹壕状射撃陣地に観えませんか。
とすると、この二重目横堀線の構築者は、奥平か武田か徳川か。
そのあたりを今、論文にしている。
横堀北
掘り下げ、竪堀状である。
南斜面に近代まで信仰が続く信仰の場がある
小田集落から谷筋を登りここに至る道があったはずだが、滅している。谷筋降下はリスクが高く、西から城に至る道の探索はしなかった。
参考文献 作手村史
引用資料 愛知県教育員会(1997)『愛知県中世城館跡調査報告Ⅲ東三河地区
同行者 作手山城路案内人 原田純一先生
註(1) 定本(1990)定本東三河の城、郷土出版社,p.206
(2)高田徹・石川浩治(1995)「奥平氏関係主要城館概要」、『愛城研報告』、第2号、愛知中世城郭研究会、p.84