和田城(長野市信更田野口) | えいきの修学旅行(令和編)

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犀川沿いではありませんが、上尾城の約2.5km南東至近にある和田城を書きます。
 
和田城
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和田城は、密蔵寺の背後、聖川に臨む丘陵上に築かれている
密蔵寺はここhttps://yahoo.jp/jYiUVP
 宮坂武男(2013)『信濃の山城と館2』、戎光祥出版(以下宮坂本2)によれば戦国期上尾城の平林氏に属した田野口氏の要害と伝わるが、はっきりしたことはわからないようだ。
 
和田城概念図
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宮坂本2を参考に、郭・堀名を同書に準拠し、ブログ説明用に書きました。
記事内測値も同書に拠り、同書を参考に城内を辿ります。
 
 丘陵最高所を郭1を主郭に、背後を崖、丘陵側を堀イ、郭2、堀ウ・エ・オで囲い、守りを固めている。
郭2北隅と郭3西隅下で堀エとオの接続部がある。この地点は、2・3に厳重監視を受けた関門と考える。
土塁、堀幅ともに、しっかりとした構造で、在地小領主の普請とは思えない。宮坂先生も指摘しているが、外部大勢力の修築が考えられよう。
 
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密蔵寺背後墓地からを攀じ登ります
注:墓地から堀エに至る道があるので、道がわかれば、そちらから入ったほうがいいかもしれません。
 
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南 密蔵寺側腰郭4
 
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東尾根を遮断する堀ア
古式である。
 
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南東隅から郭1(主郭)へとりつく
扇の要にあたる
 
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お堂は柳沢、小林、西村家の氏神か
お堂背後は北面で、土塁を備える。土塁下は堀イが囲う。
 
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お堂背後北面土塁
土塁下は堀イ。
 
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堀イ東端
 
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堀イ
イの外は郭2が囲う。
 
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主郭北西隅
 
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主郭西面
虎口が開口。
 
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西虎口から堀イ底へ
 

 
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堀イ、郭2が主郭を取り巻く
郭2土塁は北隅が2mの高さで、頑強につくられている。
 
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これは主郭北西隅
 
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郭2
土塁下は北東面は堀ウ、北西面は堀エが囲う。
 
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土塁下堀ウと郭3
 
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土塁北隅はしっかりつくられている
 
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土塁下堀ウ
郭3の北から堀エ・オが二重に1守る。
堀オは宮坂先生は120mを測る。
 
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郭2北隅は、郭3西隅とで堀ウとエが結合する地点を頭上から押さえている。
そこは、堀エ、オ間の仕切り土塁が開口しており、関門であろう。もちろんその関門は監視下に置く。
 
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同じ関門を郭3から
 
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堀エ・オ北東部
 
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エ東部から関門方向
 
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堀エ・オ二重堀線外から関門
なかなかの威容である。
 
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関門南西二重堀線
 
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北西城外から二重堀越しに郭2をみる
郭2は土塁を備え、郭内の見通しを遮っている。
 
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堀オ南西
堆積だと思うが、箱底に見えなくもない。
箱とすれば天正10年以降、上杉による構築か。しかし、他の構造に上杉風を認めない。
 
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堀オ
弘治・永禄期の武田構築のように思える。
 
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エは郭2北西部虎口と接続する
 
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石積みで補強された導線
 
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堀エ・オが北から西へ構える長大な二重防御線は、オで120mを測り、圧巻である。
在地田野口氏一手による普請ではなく、弘治・永禄年間、武田の手により構築されたものと考える。
遠藤公洋(2004)「戦国期越後上杉氏の城館と権力」pp.106-8では、箱堀、塹壕状遺構行後期類似構造、堀底の段差加工と法面の折りひずみと一体となって出入口と想定される施設の形成、堀端の切岸、土塁とかくの配置によって形成された食い違い虎口を挙げ、上杉氏領域の特徴を非常によく残す遺構と判断している。また、天正12年8月3日小田切佐馬助宛上杉景勝感状和を挙げて、和田城が、稲荷山から牧野島に至るルートの中央に位置し、加えて、そこから南へは山間を縫って生坂村や四賀村などに抜ける道が分岐していることを指摘し、遺構からは明らかに景勝期上杉氏の普請の様相を示し、史料においても、その地理的位置の重要性が確認されたといえると記している。(2022.8.11加筆)
 参考文献 宮坂武男(2013)『信濃の山城と館2』、戎光祥出版、pp.202-3
        遠藤公洋(2004)「戦国期越後上杉氏の城館と権力」、pp.106-8
  次記事も聖川沿い、城ノ入城を書きます。