吉田城(愛知県豊橋市今橋町ほか) | えいきの修学旅行(令和編)

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吉田城主郭
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北西隅に復元鉄櫓
 吉田城は、徳川が関東へ移って以降、総構えを構える近世城郭として拡大・改修され、現在は豊橋公園として開放されている。
 
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豊橋公園入口
総構え土塁に設けられた三の丸虎口にあたる。
 
  吉田城は著名な城なので、ごちゃごちゃ書かず私の興味の対象に絞って書きます。
 
 そのうえで必要な城歴。
 
 吉田城は、家康が今川氏から離れて後、徳川支配下に重臣酒井忠次が置かれ、天正18年の関東移封まで徳川の東三河統治の拠点城郭として機能した。徳川後は池田輝政が入り、総構えと主郭石垣を積む近世城郭へと姿を変えた。
 天正3年6月の設楽ヶ原合戦直前には、作手から勝頼本軍が東三河に侵攻、野田・吉田城を経て長篠へ侵攻した(1)。 勝頼来襲を跳ね返した吉田城は元亀天正期に武田に攻略されず、徳川方の城として機能した城である。
 

 私の興味の対象

 A:主郭南虎口。

 

  両袖桝形虎口を踏襲し、改修補強したものではないか。        

 

  そうとすれば、武田の城の改修ではない徳川の城に、両袖枡形虎口が使用されていたことを示すことになる。そのことは、武田の築城・典型的な城とされる古宮城の主郭両袖桝形虎口を徳川構築と考える私の観方を、諏訪原城主郭両袖桝形虎口とともに補強することになる。

 

 

 

 B:二の丸北東隅の幾何学的塁線構造。

 

 奥平圏古宮城、賽之神城に設けられている幾何学的塁線を、徳川構築とする類型とならないだろうか。
 
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吉田城縄張図(復元鉄櫓展示資料よりブログ説明のため加筆・引用)
方形主郭を豊川を背に後堅固、輪郭式に郭・堀を張る。
 池田入部以降、主郭部は徳川期を踏襲しつつ石垣を積み、隅に重層櫓を揚げ、さらに総構えを構築したのであろう。
   

 
案内図より➊主郭(本丸)周辺を切り取り
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上方が北で豊川に臨む。
 主郭を囲う深く広い空堀は、徳川の堀で、加藤先生の講演(2)では、東の三の丸も主郭であったのを小牧長久手後の天正13年~15年に豊臣軍の来攻に備えて堀を堀り、西への馬出として金柑丸を区画、掘った土で主郭土塁を高くしたとしている。虎口は、南、北、東に開口する。
 
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主郭を守る堀
南から南東隅。
深く幅広に空堀。
武田とは異の構築。
 
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南から南西隅
 
では、私の興味の対象A:主郭南虎口
 
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二の丸(南)から南虎口
標柱では南御多門。
主郭大手にあたる。
土橋で入り、枡形内で喰い違う。左に千貫櫓が防備する。
 
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左に高く千貫櫓
 
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千貫櫓台
 
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千貫櫓から南虎口桝形
出入部の喰い違い構造は用いられているが、屈曲の折れは用いられていない。
この枡形虎口を、私は武田の両袖枡形を徳川が踏襲した構造と観た。
 
冒頭にも書いたが、この吉田城は武田に奪われてはいない。
 
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古宮城主郭両袖桝形虎口
枡形内は、折れではなく、出入口の喰い違い構造である。
私は両城とも共通の構造と観る。
 
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桝形二の丸側から入り
 当たり折れ入る構造ではなく、土橋でまっすぐ西側に入り、主郭側の出入口(東による)との喰い違い構造のみである。
 
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千貫櫓は虎口前土橋を監視(この土橋も枡形)
 しかし、張出、横矢を掛ける近世城郭構造ではない。池田入部以降、石垣補強はしても、構造自体の改変はなかったのではないか。天正期徳川の出入り口構造であろう。
 
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主郭内から南虎口
千貫櫓側(右)から石垣土塁を張出し、開口部を東に寄せている
 
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千貫櫓の対岸から枡形内
食い違いがわかる。
 
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 主郭側開口は、千貫櫓側から石垣土塁を張出し、開口部を東に寄せている
石垣は池田以降による補強であろうが、食い違いのみの枡形構造は、池田による織豊構造ではなく、徳川による両袖桝形虎口と考える。
 吉田城南御多門の枡形を両袖桝形虎口と観ることが認められれば、徳川も吉田城において両袖桝形虎口を用いたことになり、古宮城主郭両袖桝形虎口が武田構築の確定的根拠とはならなくなる。
 古宮城の徳川築城説を補強する解釈になろう。
 

    
主郭東虎口から馬出金柑丸・B二の丸北東隅の幾何学的塁線構造
 
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 主郭の東に設けられた馬出金柑丸は、加藤講演では主郭東部であったものを、天正13~15年に豊臣勢の来襲に備えて現主郭東面の堀を堀って区画し、馬出としたとされていた。
 主郭東虎口もその改修に伴って構築されたものであろう。
 主郭東虎口は、当たり折れる屈曲構造を用いている。
 また、私の興味の対象であるB:二の丸北東隅塁線構造も、金柑丸南東出入口前と主郭東虎口前金柑丸南部を側面・背後から射撃することができる。同時期に造られた構造であろうか。
 
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主郭東虎口(主郭内から)
 
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虎口北塁線上から虎口前外屈曲による折れを俯瞰
 
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対岸虎口南塁線空やや張出して折れ屈曲を見る
これは武田踏襲ではなく、徳川織豊構造で、古宮城でいえば郭2北虎口C前の屈曲構造に同じであろう。
 
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古宮城郭2虎口C
※城の防御構想・縄張的には運用は異なる。
 
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同じく虎口南塁線上から折れ外の土橋をみる
完全監視。
土橋の外は馬出郭の金柑丸。
 
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土橋の外に金柑丸
 
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土橋の南の堀
主郭南東隅下方向。
 
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土橋の北の堀
主郭東面下。
 
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堀底北から土橋をみる
 石垣で補強されている。橋って脆い方がよさそうなものだが、近世城郭としては崩れちゃ困るということか。近世や石垣に関しては行く知らないので、悪しからず。
 
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土橋の外は金柑丸
しかし、私の興味の対象はB:二の丸北東隅塁線。
 
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出郭の金柑丸
左(西)に主郭東面堀。
右(東)東に土塁と堀。
金柑丸は省略します。
 
ではB二の丸北東隅の幾何学的塁線構造
 
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二の丸北東隅塁線と、塁線下の堀
 
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堀ラインはやや緩いが幾何学的塁線の匂いが漂う
 
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郭内(二の丸)から北東隅土塁
 私は古宮城で幾何学的塁線を見たとき、武田構築に違和感を覚えた。日近城で同様の塁線を見たとき、これは徳川構築による構造ではないかと閃いた。
 
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日近城主郭南東塁線
 
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古宮城郭Ⅰ西部南西塁線
 
吉田城に戻ります。
 
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西からの一角、二角、三角
 丸でもなく、四角でもない櫓台位置の幾何学的塁線は、迎撃面を多角に向け、機能的に射撃することができるのではないか。
 
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北東隅にあたる三角目

下は先に掲載した堀

 
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二の丸東面塁線
 
私の興味の対象Bに関する妄想も、古宮城を徳川構築と考える補強に成り得ないだろうか。
 

 
容量の許すかぎり写真掲載します
 
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豊川側主郭北虎口
 
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当たり折れる屈曲、さらに高低差を効かす
 
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豊川側帯郭を経て豊川に繋がる
川に降りる虎口脇の郭を川手櫓が揚がっていたようだ。
 
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川手櫓
で、ふと感じたのが、古宮城・亀山城・賽之神城に見ることができる虎口脇の土塁囲いの郭を想った。
 

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亀山城東曲輪
 
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豊川に面し石垣が美しい
石垣の積み方に時期差があるようだが、詳しくないのでパス。
 
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 豊川に面した北面は、徳川去って後、近世城郭として石垣を築き、重層建築物とともに豊川を行き交う船に威容を示したのだろう。北虎口はその時代の構築ではなかろうか。
 

 ほかにも見どころがある吉田城ですが、私の興味の対象である奥平圏の城の構造に影響を与えた上位権力を考えるうえで指標となりそうな構造に絞って綴りました。

 

 
 註
(1) 柴裕之(2014)「長篠合戦再考-その政治背景と展開-」,『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』、岩田書院、pp109-11
(2) 加藤理文講演(2017)「五か国領有時代の徳川家康と吉田城」、『城の魅力-吉田城と戦国-』、豊橋市文化財センター
 
 古宮城、日近城などは愛知県のページよりご覧ください。

        愛知県:https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496897269.html

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