綿内要害(春山城)
3では堀ケから小城へと辿ります
大城南壁となる堀クから岩尾根を約100m
岩
尾根も山岳信仰の聖地であろう
6月の綿内要害踏み歩き選択は、藪の城を忌避して岩尾根の城なら可能だろうと考えた故で、その選択はヒットであった
岩尾根写真館ではない
堀クから約100mで堀ケ
堀ケ
右(西)、春山側からの道が入る。
春山からの道が岩を断ち割ったケに入る
蓮台寺側に乗り越していたかはわからない
小城側からケ
小城へ登る
約150mで小城城域。
また尾根写真館気味ですが、岩尾根
聖なる山
此処を登ると小城
途中にダルマ岩
私の一眼レフ、ピントが気まぐれ
山上が小城
小城
郭6
土塁は、大城と連絡する岩尾根面に設けられている
土塁下方の尾根
これが本来の導線か。
岩付近から郭6
南に一段低く郭7
郭7南は堀コで遮断。
郭7
南は堀コで遮断
隔絶遮断
小城は北の大城方向には堀切を設けていないが、南の尾根続きに堀切を設け遮断している。
小城は、大城方向ではなく、後方(南)を警戒しているわけである。
堀中(底)は、岩を城戸状に土橋でを設けたようだ。もちろん土橋は郭7より頭上監視を受ける。張出横矢をかけるまでには発達していない。
土橋
土橋を堀コ中側面から
岩の城戸?
?としたのは、城戸は堀の城内側に設けたほうが防御力が高いと思うから。
いちおう郭8
郭とは言っても緩い。
天水溜がある。
天水溜
まとめ
綿内要害小城は、北の大城方向に堀切を設けていないが、南の尾根続きに堀切を設け、警戒遮断する意図を持っている。
また、大城の厳重に手を加えた普請は、南の小城方向に対して施されている。
このことから、私は小城が大城危険時に退去し籠る詰の城ではなく、南から攻め寄せる敵をに対し備え警戒する、大城の出城的意図をもった城と考える。
綿内要害は、古くは大城を主要害とし、小城を詰の城とする運用であったかもしれないが、武田圏下に改修が施され、このように運用がかわったものと考える。
違う視点から
綿内要害は、古来からの山岳信仰の聖地をまるまる取り込んでいる。
要害機能としての山岳寺院の利用意図もあったであろうが、このような岩々に宿るカミと一体になるかのように聖域をまるまる取り込んだ城は、戦闘、信仰の利用だけを意図して用いられた城ではないのではないか。
私は岩尾根を踏み歩きながら、築城主体者がこの山のカミと一体になろうとした心を感じる思いがした。
わかり易く書くと、支配者の寺院利用という政治的思惑ではなく、大袈裟だが、お釈迦様の霊鷲山のような宗教的環境を感じた。
参考文献 宮坂武男(2013)『信濃の山城と館2』、戎光祥出版
容量があるので、本文で使用しなかった岩々と眺望の写真を掲げ、エンディングとします。
安源寺城 井上大城小城 明覚山方向
斑尾山 飯山方面
飯綱山 長沼城 髻山城方向
信濃の国、感涙。
旭山、葛山城方向
千曲川、犀川合流点
鞍骨城を目視