田草城1 はじめに(長野県飯山市静間田草) | えいきの修学旅行(令和編)

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 田草城

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 この城も、小境同様、何度(計測不能)も挑んでは、藪、雪、クーさんに撃退され、今春ようやく踏み歩くことができた城である。
 なぜ、執拗にまで挑んだか(見たかったか)というと、それは地図で釈明しよう。
 
 永禄11年7月、武田信玄は、越後揚北の本庄繁長と呼応し、上杉の北信拠点飯山城を攻めた。
 信玄は蓮城を本陣に、飯山城攻めを指揮した伝承がある(宮坂 2014,p.139)。
 黒で上杉方、赤で武田方の城を示した。
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 田草城・小田草城 (藪深く無理でした)は、野尻湖周辺と蓮周辺を繋ぐ重要な位置に所在する。
  信玄が蓮から飯山城を攻めるには、田草、小田草城を攻略、あるいは無力化しなければ、軍を進めることは不可能であろう。
 永禄11年の飯山城をめぐる攻防戦を舞台とする武田上杉境目の山城の姿を実見したかった。
 

 上地図エリアには、割ヶ岳城・若宮城・後谷城・富倉城・狢倉城、他、踏み歩いた城が所在するが、的を絞るため省いた。

北信濃のページ上部:飯山市・栄村・信濃町・飯綱町・木島平村で巡ってください。
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斑尾側から
 
愚図ですが、宮坂図を参考に作図しました。ブログ説明の一助にはなろうかと思います。
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堀エの西への巡りは宮坂図とは異なります。
 
 畝状空堀カは、永禄11年の攻防時に一致する構造であろう。呼応した本庄周辺大場沢城、猿沢城など、畝状空堀群が明瞭である。
 畝状空堀群カは、南西尾根から主郭へ攻め伝う敵の回り込みを阻止する。
 主郭1に至る南西尾根と北東尾根では、構造に意図的な差がある。南西尾根は、堀切るだけではなく、土塁が運用されている。また、3・4東下方に、虎口ではないが敵兵停滞スポットを´郭を設け、側面高所から迎撃を加える意図が見える。
 北東尾根は、5本の遮断堀切を設けている。
 これは、想定する攻め伝い来る敵の差、時期の差によるものであろう。南西尾根から攻め伝い来る敵は、永禄11年以前の武田勢であり(ただし南西尾根のルートとしての補強は武田使用下か)。北東から攻め伝い来る敵は、永禄11年以降の上杉勢であろう。
 また、堀エ西部と堀スの横堀状構造も、エは永禄11年以降の武田方、スは天正10年景勝期上杉方による北信に出る構築と考えている。堀イーア間は景勝期の後付けであろうか。
 
 そのような読み解きで、田草城を書き進める。
 

ダイジェスト
 
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堀キ越(北東から)に主郭1
 
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堡塁に架橋接続であろうが、遮断を意図した堀切であろう
 
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キの東側掘り下げ
主郭北東尾根の堀切は、上杉に備えた構造と捉えている。
 
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主郭1
円形で、広さは20×17でしかない。
 
 この郭を確保することが、斑尾・野尻方面と飯山・蓮方面を繋ぐことになる。
 この城の美しいまでの造作の意義がそこにあり、それが、上杉、武田双方にとっていかに戦略上重要なことであったか。私は、一人信濃の国の山中で鈴を振りつつ、時空を超えて戦国に想いを馳せる幸せに浸った。
 
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御嶽座王大権現
新しい…。
 
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畝状空堀群カ
本庄周辺の大場沢・猿沢城に構築されたのと同時期、永禄後期の上杉方による構築であろう。
あるいは天正10年か…。
 
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 南西尾根は、稜線郭下方に虎口ではないが敵兵停滞スポットを設け、側面頭上から迎撃を加えることができる。
 虎口による接続はみられず、永禄後期の上杉か武田か。
 
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北西に降り下り、横堀状となる。
元亀天正期、織田徳川との境に構築された武田の横堀と同じではないか。
 
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横堀ス
天正10年、北信に出る景勝勢による構築と観た。
 
 ダイジェスト、これくらいにしておきます。
 

 
登り口
 
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2015.5月
雪解けを待って、GWころ初挑戦。
しかし、クーさんの子供に木の上から吼えられ撤退。
クーさんって、吼えるんです。
 
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2017.4月中旬、クーさんの眠りが覚める前を狙って寄せるが、林道の除雪が途中までで断念(バイク)。
 
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そしてその一週間後、悲願の田草城域に踏み込むことができた。
時期を同じく、別荘においでの方に、おう上越の空手の人か、と記憶いただけていて、光栄でした。
 家屋北西の林道(車通行不可)を北西尾根先に回り登り詰め、城郭類似遺構堀セ・ソ側から堀サにアプローチするのが急登にならないと睨んだが、クーさんに遭遇したため、実践していない。
 
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クーさん遭遇地点を避け、堀サ付近に至りそうな古道からトライ。
 緑は枯れていても、枝が私を突き刺そうと、または前に進むのを阻もうと絡まり、歓待する。まるで、信濃の国のカミが、これでもお前は行くか、と、苦行を用意しているかのようである。
 
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そのような状況でも、横堀か?と、胸ときめく…。
 
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途中で古道の痕跡は消失…、耕作用途の道か。
堀サ西の高地に直登。
 
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堀イに至るひよどり越えもこのような急傾斜。
城域到達までは苦行です。
 
 しかし、城域は○。
 
 ダイジェストでツボは押さえたつもりですが、2では、さらにこってりと城の構造を紹介します。
 お楽しみに。
 
 参考文献 宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』、戎光祥出版