3では、南尾根伝いに山上の郭2、1へ登り、主要部郭1・2を辿ります。
小境城見取図(らんまる攻城戦記より引用・ブログ説明用にABを命名、橙加筆)
A段西から南尾根に回りよじ登り、削平段を伝い郭2南下に付随する段に至る。私は、この南尾根が大手のルートと考える。
山上主要部は郭1・2しかなく、元来この城の主の身代が、さほど大きくないことを示していると考える。郭1背後(北西)は、土塁状で、土が盛られ小高い。後背からの見通しを防ぐためと、搦手との接続のための架橋台としたのであろう。
そして、後背は圧巻の五重堀切である。
堀コから南尾根
A段を東に進み、堀シ上端をかすめて南尾根に回り取り付く。
堀コ上端を通過
左直上は南尾根の削平段が頭上監視。
側面頭上からの監視下、堀シで狭められた箇所を通過する。切所となろう。
左側面上
南尾根の削平段がA段東部を頭上監視。
宮坂図には道の痕跡(途絶える)が記されており、南尾根へ、回り取り付く
本当に途絶える…
南東尾根との間に雨烈状の竪堀スがあるのだが、あれがそうか?
木、枝を掴み、攀じ登る
枝のお蔭で攀じ登ることができるのだが、顔や喉や股に刺さりそうで、息が詰まる。
A段東部を頭上監視する削平段
山上側(右)は切岸としておらず、尾根伝い阻止の構造ではないとみた。遮断堀切もない。南尾根は山上へのルートと考える。
A段を頭上監視
シで狭められたところは漏らしてしまった。
山上側
藪が阻むが、壁状に切り立てられていない。
尾根を削平段を伝って登ることができる
南東尾根との接続は無理であろう
1で掲載した郭3・4・5居住区域
接続無理だが通信は可能か。
西斜面
回り込みは不可。
尾根を伝い登り、山上主要部を視認
光明が差す。
上方から、南尾根舌状の削平段の様子
郭2´への取り付き
虎口にさえ見える…。
山上主要郭の様子は、項をあらため、郭2を起点に辿ります。
山上主要郭
郭2後背(北西)壁上に郭1
撮影地背後に郭2´で受ける南尾根、南東端から南東尾根が派生する。
郭2西部は一段低く区画されている。
北東端には土塁が設けられている。
南尾根(登ってきた)を受ける郭2´
私は、こちらが大手と考える。
東方
北東隅土塁
郭1への土橋かと思ったが、郭1壁が高く、違うようだ。東斜面への回り込み阻止であろうか。
土塁の北、東斜面
阻止しなくてもよさそうだが…。
壁高く、接続ではないと考えた
郭1への接続は西端からであろう(後掲)。
南東隅
宮坂先生は、居住区郭Ⅲとの接続大手と推測しているが、南東尾根は堀エで遮断されたうえに、急傾斜で、厳しいと思う。この日、私は後背の竪堀を降下したため、確認できず。
12月南東尾根
踏破・確認しようと立ったが、確かめる意思が消失。滑落のリスクも高く、止めておいた。
らんまる・ていびすの両名は、南東尾根を郭3に降り、感想を攻城戦記に公開している。
空手でも上には上がいることに感激と戒めを受けるが、城修行者にも上には上がいるのだ。
お二人を上に観ることにより、己を楽観視する儚い根拠にしている…。
郭2西の一段低い区画
辺縁は急壁で、道を受ける郭ではない。
北東段差は石で構築されている。
強固に構築する意図がわからず、たまたまあっただけかもしれない
もしかしたら後背五重堀切方向への接続があるかとも思ったが、この斜面のトラバースは無いであろう
主郭1へ向かおう
南西に低く一段あるのがわかるであろう
西から土橋状に段を経由し主郭1へ
郭1
笹、雑木がきつい
12月のほうが、それでもわかるか
後背に土塁状の高所。
後背からの見通しを防ぎ(遮蔽)、また、後背三重堀切を架橋し、堀ク・搦手と連絡するための構築であろう。
東端(右側)から土橋状に伝い、昇降できる。
郭1から2を俯瞰
この郭2と上写真の1のみが、この城の主要郭。というか、これしかない(堀ク底も郭利用と考えるが、三重堀切で隔絶されている)。
城主の身代が、大きくはないことがわかるであろう。会津時代に150石という西堀氏の身代に相応しいのではないか。軍役は10人程度のものだろう。
郭1後背の土塁へ
東端土塁から土橋状に伝いあがる
写真中央やや左が、遮断堀切
郭1後背(北西)土塁上
遮蔽と架橋台を意図した構築だろう。
平らにならされ、架橋個所と考える
土塁上から郭1
中条城、山口小城と同様の郭構造か。
土塁後背、遮断堀切オ
身の毛もよだつ(胸が高鳴る)。
小境城3で、五重堀切まで紹介する予定でしたが、ここで区切り、五重堀切は4で辿ります。
4では、2と一部写真が重複させますが、たっぷり五重堀切を堪能ください。